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2011年5月10日火曜日

パリを考える4-パリ市のプロジェクト①:歩行者政策


パリはフランスであり、フランスはパリである。


そんなことが言えてしまうようなこのパリという象徴的な存在。

全ての道はローマに通ずというが、パリもそれに当たるくらい全ての交通の結節点になっているし、第2の都市リヨンとは圧倒的な力の差がある。

パリというのは他の地域と違い、パリという市が独立で存在している。
所謂カタツムリの殻をなす20区に加えて、東西にある2つの森がパリ市だ。

13-20区は新たに追加されたことは以前にも書いた。

グランパリという国家主導の中央集権的かつトップダウン的なプロジェクトが動いているが、そのフランスを象徴するパリというのもまた、強力な力を持って次々とプロジェクトを行っている。

東京も、安藤さんを中心に東京に風を入れよう、埋立地に森を!とか色々アイデアを提唱しているが、パリは大胆極まりない。

正直、この歴史都市によくこんな大胆な手を加えられるものだと感心する。

意見好きなフランス人だからかわからないが、大規模プロジェクトをやる時は、フランスは公開討論などを経ないといけない。その割には結局行政の力が強くて(或いは民間が反対しないのか?)、とにかくガーンと劇的な計画を行ってしまう。

その代表的な例はVelib'だろう。一日1.7ユーロで30分以内ならで自転車乗り放題というあれである。
ここ数年のうちにパリに来た人は、到る所に自転車ステーションがあったのを目にしたに違いない。街を歩いていれば嫌でも目に付く。目につかなかった人は、パリ、ちゃんと見て回った?と疑問を呈してしまう。それくらいパリ中に整備されている。
今では当たり前のVelib'だが、実は僕が初めてパリを訪れた7年前には存在しなかった。それが、あっという間にパリ中に広まった。
パリで劇的な成功を収めたベリブシステムはフランスの到る所で見かけられるようになった。

これは自動車削減政策を掲げるパリ市長ドゥラノエのおかげであろう。ゲイでも有名なパリ市長であるが、かれは自動車削減プロジェクトや歩行者優先のプロジェクトを次々と経ちあげている。
そのうちのいくつかのプロジェクトを歩行者政策に焦点をしぼって以下に簡単に紹介したいと思う。

①projet les halles(chatelet)

les hallesは新宿みたいな場所だ。交通の要所であり、3本のRERと5本の地下鉄が交差するパリ最大の交通要所である。パリ郊外からパリにやってくる場合このles hallesを通るのが普通だ。パリのど真ん中にある大きな広場を歩行者のための公園にして、駅とショッピングモールと公園を結び、パリの玄関としての新たな顔を作ろう、というのがこのプロジェクトである。

②セーヌ岸
もうひとつ市長肝入りのプロジェクトはパリのセーヌ岸の解放である。
現状
今現在はセーヌ川の両岸というのは観光客としても大事な場所なのだが、車の通りも非常に激しい。これに市長が決断を下し、セーヌ左岸道路は完全に歩行者空間に、右岸も車道を大幅に制限し、セーヌ川岸を開放し、歩ける岸を作ろう!というものである。
2002年から夏場にセーヌ岸に砂浜を作っていたが(僕はまだ見たことない)、これの延長線上であろう。車は環状通り或いはリボリ通りなどの大きな別のブルバードが吸収してくれるだろうという見込みで車利用者の反対を押し切って?再来年には実現される一大プロジェクトである。
将来図
日本で言うと目白通りとか山手通りを完全シャットアウトするような感じだろうか?
工事規模としては大きなものではないが、パリのあり方をラディカルに変えてしまう。こんな大胆なこと、東京じゃなかなかできないだろう。

③バスティーユ広場の開放
バスティーユ広場と言えばかつてバスティーユ監獄があったところ、そしてパリ市民の誇りであろう、フランス革命が起こった場所である。僕は世界史の知識に非常に乏しかったのでこっちにきてからしったけど、市民が火薬を奪うためにバスティーユ監獄を襲撃したのがフランス革命であり、パリにとって非常に大事な場所だ。

しかし、パリの大きな広場は基本的に全て交差点になっており、その中心まで歩いて行くのは事実上不可能に近い。凱旋門にいくのも地下道を通らないといけないし、バスティーユもナシオンもコンコルドも、中央にあるシンボルの周りは道路という屈強な壁に阻まれている。
そのバスティーユ広場から車を排除して市民に開放しようというプロジェクトである。


これらのプロジェクトはパリと言うイメージを少なからず変えるだろう。今ではまだパリは車中心の街だが、これらのプロジェクトが進行していくともっと歩行者の街というイメージが定着するかもしれない。
パリは小さいとはいえ、これでも200万人を抱える大都市である。良かれ悪かれ、このようなプロジェクトを一気にやってしまうのがパリである。



元々、ヨーロッパは大胆なことをやってのける風潮があるようには思う。ストラスブールで大胆に歩行者中心政策で中心街から車を排除し、トラムを使ったまちづくりを行ったり、コペンハーゲンのストロンハイエでも同じく中心街から車を排除し、歩行者のまちを作って、街に活性化をもたらした。或いはグッゲンハイム美術館を作ってイメージを変えたビルバオ。このような例はあるが、パリはそれに比べて遥かに大きい町。フランスが誇る首都である。それでもこのような大きなプロジェクトが起こる。

いずれのプロジェクトも、正直東京じゃ考えられない。もちろん、東京はパリに比べて遥かに大きい。それはわかっている。パリ圏(パリとその周辺を含む)の人口は1千万規模だが、東京は3600万(横浜など含む東京から50-70キロ圏内)である。とはいえ、例えば山手線内の人口はパリと同じくらいであるし、パリの面積より山手線内の面積の方が小さい。
安藤さんはそんな山手線内は全て車を排除してしまえばいいじゃないか!と言っていたが、僕は残念ながら東京がそんな姿になる姿は微塵にも想像がつかない。皇居周辺道路が全て歩行者空間になることだって想像だにしない。
東京と言う街を変えるのは一筋縄ではいかないだろう。シンボルの一つであろう東京駅の復元でさえ、随分長期間委員会で話し合っていたみたいだし、結局金がなくて、空中権を売って両脇に巨大な高層ビルが建つことの引き換えにようやく東京駅はかつての姿を取り戻せる、という具合だ。



逆に言えば、パリにおけるこのような大きなプロジェクトは市長や大統領の力によって断行されてしまう。

利権関係でなかなかどうにかプロジェクトが進行しにくい東京と、パリと果たしてどちらがいいのだろうか。
例えばグランパリのように、工学的には地下鉄の需要予測が期待値の半分しか成り立たないと言われているプロジェクトも、やる!といったら実行されてしまう。

セーヌはパリの顔である!といって車を撤去したパリと、お金もないし東京の中心のはずである日本橋の高架高速道路を撤去できない東京。

相互に憧れる都市でありながらそのあり方は全く違うように思える。



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2011年4月28日木曜日

パリを考える3-パリとメトロポリタン1-

パリで最近動いている大統領主導の一大プロジェクトがある。

その名もGrand Paris。

文字通りパリを大きくしようというものだ。
けれども、パリという大きさはかつての城壁でくっきり区切られているので、パリの行政区域が直接大きくなるわけではない。
ただ、周縁部に無人運転のメトロを通して、パリから衛星都市のように結ばれている各地域を結び、クラスター(産業重点地区みたいなもん)を結び、パリを世界レベルでたちうちできるメトロポリタンにしようという計画である。

その目的はNY、TOKYO、LONDONに匹敵するメトロポリタンになり、経済発展をすること。

その大きな目玉の一つが上に述べた無人運転のメトロである。国家主導で行われるGrand Huitに加えて、パリ市が主導のarc expressの2つが出来る予定。
さらにはRATPというパリ都市交通局による既存メトロの延伸、トラムの延伸、4本のトラムの新設などがあげられる。下の図に書かれている殆どが、パリ周縁部の交通計画の一覧である。


点線部がgrand huitのラインで、右端にあるNoisy-champsはまさに僕が今住んでいるところ、そして我々のENPCが位置する所である。
ここは将来的にクラスターデカルトとして、学術都市(よーするに筑波みたいんところ)として、東の中心地区の一つになろうとしているのだ。将来的には今のRER Aに加えて、このgrand huit、そしてトラムが延伸されることになっているらしい。


Grand Parisについては自分もまだ消化しきれていない部分も多いからまた改めて何度か考えてみたい。そもそも、まだ公開議論がつい先日終わったばっか(だったかな?)であって、このラインも確定していない。
以下は僕の主観的意見が多分に盛り込まれている。この先変わることは大きくあると思うけど、今の自分の立ち位置として記録しておくのは悪くないと思った。

メトロポリタン最大の都市としてTOKYOは必ず出てくる大先輩である。その、メトロポリタンの大先輩の一住人として言わせてもらうと、恐らくこのグランパリは成功しない。
一つは武蔵野線レベルの大きさの鉄道を無人のメトロで運転するのはあまりに無茶があること。話題にはなっても赤字から抜け出せないし、すでに直線状で結ばれているRERのクオリティが余りに低いので恐らく目論見はうまくいかないんだろうと思っている。風に弱い武蔵野線の延長は107kmなのに、このgrand huitは総延長160kmになるはず。それを地下で建設するなんて信じられないくらいコストがかかる。
もうひとつ、このプロジェクトはフランス伝統の中央集権主義から少しでも環状線をつないで横の連携をつなごう!そして、その影響力でパリと周縁部の連携をさらに深め、パリを大きくしよう!というものだが、まず、通る駅達は全てパリの外の衛星都市。山手線のように周回する駅が魅力的ではない。普通にこの周回鉄道を通るならパリから放射状に延びる既存のRERを使って移動した方が圧倒的に早いだろう。環状線として新興都市同士をつなぐメリットがどうも見えてこないのだ。結局パリを通過することになるのではないかと思ってしまう。
そして、パリの周りのコミュニティ同士の意識も、この周回鉄道で変わるとは思えない。まず、パリが圧倒的すぎるので、パリと郊外A、B、Cみたいな扱いであるのが、郊外A,B、Cをワッカ通したからこれでパリと一体になって…というわけでもない。今回のプロジェクトではパリと周辺コミュニティの力の関係性も変わらないので、周りのコミュニティ同士がパリジャンとしての意識を持つことは難しいだろう。
ちょうどまさしく、グランパリのアイデンティティとは何かと言うプレゼンをすることもあって最近グループで議論するのだが、その話の中で、パリはフランスだよ。
パリはフランスであり、フランスはパリである。
日本でこんなこと聞いたことないが、それが言い切れるくらいフランスと言う国は中央集権的な作りをしている。お隣のドイツはそのま逆なので、友達はほんとフランスは…と良く言っている。

パリとパリ以外の差は圧倒的である。交通の便も圧倒的に違う。パリの中の交通網は素晴らしい。正直東京よりも凄いと思う(汚いけどね)。バスとメトロとヴェリブと組み合わせたら殆ど歩かないでパリじゅうを横断できる。しかし、一歩パリをでると途端に不便になる。そう、僕の家のように…orz

交通も全てパリを起点とする。全ての道はパリに通ずといっても過言でないくらい。

余談だが、昔リヨンからラロッシェルに戻ろうとした時、直線で行けるラインがあれば4時間くらいで行けそうなものなのに、TGVが全部パリ起点なので、一見遠回りなパリ経由の方が直線距離が遥かに短いルートよりも3時間近く早くつくことをみて驚愕した覚えがある。

まぁ、とはいえ、グランパリは現在動いている都市計画の中ではとても興味深いし、何より自分がこうしてその変化の中に”生”でいられる非常に貴重な体験なので目が離せない。
目が離せないもう一つの理由は東京とパリの関係性である。

圧倒的に集権的な国、メトロポリタンの先輩の日本もまさにその例の一つだろう。
メトロポリタン東京は、僕の理解が正しければ、望んでこうした超巨大都市になったわけではない。
日本の国土の開発の方針を決める、”全総”という国交省が数年に一度まとめる報告書があるのだが、1~4次で常々謳われてきたのが”国土の均衡ある発展”。巨大都市、ひいては東京への一極集中を避けるものである。
それでも東京は成長した。今では東京首都圏の人口は3400万にのぼると言う。 ちなみに、ドイツでは制度上、十万を超えれば大都市だそうだ。

常に東京の一極集中をなんとか抑えようとし、そして、度々失敗してきた。
東京メトロポリタンは、一極集中を避けようとしても避けられなかった。
東京は東京の拡大を防ごうとした。かつて、2度にわたるグリーンベルト(緑のえりあによって物理的に都市の拡大を防ぐ。ロンドンや韓国が有名)を試みたが、いずれも計画に失敗している。
世田谷区の砧公園は確かその名残だった気がする。
ある意味、封じ込めに失敗してしまって、今の世界最大のメトロポリタンが出来てしまったのだ。東京はある意味誇りだが、ある意味失敗の賜物なのかもしれない。
そして、東京と言われて思い浮かべるのは何か?東京のアイデンティティというのは僕らの分野では度々問われる質問である。

一方のパリは中央集権国家ではあるが、パリという都市を明確に区別できる。住居問題などはあるが、パリのスプロール化が問題にはなっていないはず。城郭都市なのでグリーンベルトを作らなくてもよかった。
中心部は大胆な都市計画として歴史に名を刻んだオースマンの都市計画を経験し、歴史的建造物も残り、パリと言えばセーヌ川、エッフェル塔、凱旋門、カフェ。アイデンティティに溢れている。

だから、東京が得たくても得られなかったものをパリは嫌と言うほど持っている。だから、パリと言う存在は東京の憧れだったのではないかと思う。

その、憧れの存在が、今まさに東京と言うメトロポリタンに追いつこうとしている。自分の憧れが今度は自分を目指しだしたのだ。それは、困惑するに違いない。

パリは今変わろうとしている。みんなはこれをどう思うのだろうか。

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2011年4月19日火曜日

パリを考える2-鉄道からみたオルセー美術館-

現在のパリには6つの主要駅があることは前回ちょこっと書いた。
最初の駅サンラザールのほか、北駅、東駅、リヨン駅、オーステリッツ駅、モンパルナス駅がある。

こいつらが、恐らく(だが、かなりの確率で)当時の12区の周縁部に、煤煙などを避けるようにして建設されたことは書いた。
恐らく、立地に関してはロンドンのそれが参考にされているんだろうと思うけど、ロンドンの駅の立地が当時の行政区とどう関連していたかは僕にはよくわからない(誰か知ってる人がいたら教えてください)。

1837年のサンラザール駅を初めとして、次々と6つの駅ができた。そして、その駅を北部鉄道、オルレアン鉄道、東部鉄道、 西部鉄道、地中海鉄道etcといった鉄道私鉄会社がそれぞれの駅を使って電車を運行していた。西部鉄道などはいくつかの合併によって誕生したものらしいが。

まぁようするに、こいつらはみな各鉄道路線の始発駅なわけだ。元々が別の会社によって運営されていた駅だからこそ、駅舎としても通過駅型でなく、終着駅タイプの駅舎になっているんだろう。東横線の渋谷駅や小田急の新宿駅みたいなもんだ。
それが、1930年になって、各路線の赤字から、国が買収し、国鉄となった。それが現在のSNCF。
現在でもフランスの長距離列車は”国”鉄である。日本とはここは違う。日本は国鉄を民営化したので全く逆の道をいってるわけだ。

今回はそのうちのオルレアン鉄道にちょっと話を絞る。

オルレアン鉄道の主要駅は今は影をひそめがちなオーステリッツ駅である(現在は夜行列車や一部近郊線に使われている)。オルレアン鉄道はその名の通り、オルレアンを通りながら、ボルドーなどへ向かう鉄道だった。


オルレアン鉄道が出来たのが確か1850年代。
そのうち、オーステリッツ駅が中心部から若干離れていたこと、同じくオルレアン鉄道が所有していた郊外線のソー線の駅が今のRER B線のDenfert-Rochereauから同じくB線のリュクサンブール駅に移り、より便利になったことに加えて万博が1900年に開催されることと合わせて、オルレアン線本線延伸が決まった。
そして作られることになったのがオルセー駅、今のオルセー美術館である。
ルーブルはかつての王宮の一つであり、オルセーは駅だった。カッコ良いリノベーションだと思う。

この際、パリの中心部に煙を持ち込まないように、ということでオーステリッツとオルセーの間の線路は全て地下化したうえ、電気軌道で走ることとなった。オルセーは、その結果駅舎に煙が入らないことを前提として設計された駅舎であるらしい。 恐らく、ホームが全部屋根で覆われていたのだろうと思う。他の駅は途中から屋根がないのはTGVに乗ったりしたことがある人ならわかるのではないだろうか。

1900年に開通したオルセー駅は、しばらくの間オーステリッツ駅に代わってオルレアン線のターミナル駅として活躍した。
スペインへの国際列車も発車していたらしい。
ここから、40年近く、パリのど真ん中を長距離鉄道が走っていたことになるのだ。

知らなかったのだが、この万博に合わせて実は、パリ左岸でもうちょっと西のアンヴァリッド(今はナポレオンの墓がある)という駅やchamp de marsといった駅も開通していたそうだ。それに加えて、luxembourgやdenfert-rochreauなども駅が通っていた。
そう、パリの地上部分にはあまり鉄道が走っていないように見えて、一時はかなりの鉄道がパリの中心部までやってきていたのだ。
僕の中ではパリの駅はあくまで6つの中心からはちょっと離れた駅達であって、パリは中心部に駅が入ってくるのをかたくなに拒んでいると思っていたが、実際はそうでなかったようだ。
この鉄道路線の名残は実は今でも見ることができる。
アンヴァリッド駅やオルセー駅、オーステリッツ駅は地下で結ばれて現在のRER C線になっているし、ソー線は今のRER B線の南部につながっているのだ。100年前の鉄道路線はこうやって今も生き続けている。あまり書いていると長くなるのではしょるが、RERの路線たちは1800年代後半~1900年頃に出来た鉄道路線を利用しつつ新規路線を追加して1960年代に復活した。

しかし、1930年代後半になって車輛が長くなったことを受けてホームが足りなくなったこともあり駅舎としての短い役目を終えた。

それが、86年に美術館として改装されて今の姿があるのだ。


ルーブルを見てから、オルセーに行く時に、セーヌ左岸沿いを歩いているとオルセー美術館の側面を見ることができる。時間がある人はぜひ見てほしい。

そこには、PO(paris-orleans)と駅舎に掘られたマークと、かつてオルレアン鉄道が結んでいた駅、ボルドーやオルレアンといった名前が刻まれているのだ。確かにここは駅舎だったことを感じさせる瞬間。自分はこれを見た時ちょっと感動した。

それを感じながら、オルセー美術館の正面に入ってみるとより一層オルセー美術館が素晴らしいモノになるのでないかと思う。チケットを切った後少し階段を下る前に奥を見渡せば、そこに当時はオルレアン鉄道の車両が止まっていたこと、線路が地下を通ってきたから恐らくあの下り階段があるのかもしれないといった思いが湧いてくる。
そして、振り返ってあの大時計を見れば、より一層駅としてのオルセーを感じられるはずだと思う。
駅として流れていた時間を見ながら、ちょうど鉄道が開通した時代からオルセー駅が誕生するくらいまでの当時の作品たちを見るなんて、なんとも粋なことをしてくれるもんだなと思う。


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2011年4月12日火曜日

Giverny

サンラザールから電車で45分。
印象派ゆかりの地の一つであるジヴェルニーに行ってきた。

ちょっと前までプレゼンなどで随分精神的にすり減ってたので、少し外に飛び出したかった。
最初は大好きなルーアンに行こうと思ったんだけど、かれこれ3回目になるルーアンより、新しい所に行きたいなぁと思って、ふとジヴェルニーが出てきた。
晩年モネが過ごした家がある場所。スイレンや太鼓橋の絵はここから生まれたそうな。
てわけで、建築の友達と3人で旅立ってきた。
ジヴェルニー事態は、軽井沢と富良野を足して敷地面積を100分の1にしたようなそんな可愛い小さな村。


モネの家とその庭は4-11月くらい、花が咲いてる時期だけあいているんだそうだ。
そこはもうすっかり春だった。いや、5月や6月を思わせるくらい。
あぁ、春だなぁと思わせてくれる綺麗に整えられた庭と、スイレンや太鼓橋が広がるちょっとうっそうとした庭との二つに分かれている。

こちらはかの有名な太鼓橋。 


綺麗な庭で、みんながのんびり楽しそうに話しているのがとても素敵だった。




庭と並んでもう一つ有名なのはモネの家。
ジャポニズムに影響された印象派の巨匠の家には、信じられないくらいの浮世絵が所狭しと展示されていた。写真は禁止されていたけど、正直こんな量・質の浮世絵を見たのは生まれて初めてだった。
北斎、広重、歌川一派、歌麿etc
美人画も風景画も風俗画も。ちょっと保存状態が悪いけど、それでもこんなに一度に見れる場所なんてあるんだろうか?法隆寺宝物館ですらこんなにまとまってはみれないんじゃないか。
一人の家なのに、津和野の北斎美術館並みの作品があるような気がする。
今ではもうなかなか日本には回収できないんだろうなぁ。自分の国の作品なのに、フランスでこんなに大量にお目にかかるなんて、皮肉なもんだよなぁ。しかも、みんなが大好きな印象派こそが、日本がかなぐり捨てようとした日本の絵画に感銘を受けたのが日本ってのがまたなんともシュール。

見所は正直これと、とても小さな印象派美術館しかないのだけど、一日堪能できる素敵な村。
時間ができたらまた来たいなぁと思う。ちょっと小さなお気に入りを見つけた気分。

パリであわただしく美術館見るより、ここで一日のんびり庭見て、絵を見て散歩して、カフェでお茶飲んでって方が良い思い出になるんじゃないかなぁと思う。
電車で45分いくだけで、こんなのどかな風景が広がってるのはフランスだからこそなせる業かもしれないけれど。

日本ほど、小さな季節感を感じとって、というようなものはないけれど、太陽のおかげで日中は半袖でいけるくらいの良い季節になってきました。

パリももうすっかり春です。


2011年4月9日土曜日

パリを考える1-パリと境界-

随分とブログを放置してしまった。1とつけたのは続きを書こうと言う自分への戒め。


まだまだ、この街には知らないことがいっぱいある。

それは、さりげなく、いや、別に隠されているわけじゃないのだけど、良く見ないと気付かない。そんな所が沢山ある感じ。

パリをふらふら歩いたりしつつ、今学期は
・フランス人との交換授業でナポレオン3世のパリの歴史についての勉強
・フランス語の授業のテーマがオルセーの作品などを通じて、美術の解説技術を身につけつつ、オースマニアンを読み解く
というちょっとアカデミックなアプローチも踏んでいる。

この勉強を始める前から、パリの境目について興味があった。
パリは城壁都市だ。シテ島という小さな小さな島から始まって、城壁を作っては壊して、作っては壊して、と脱皮を繰り返して大きくなってきた。
最後の脱皮をして、今のパリの大きさが規定された。その城壁は環状高速道路(ペリフェリック=英語で言う所のring)になった。その一つ前の時代、オースマンの時代に最後の脱皮によって城壁は取り壊され、パリは大きくなった。今から150年前のこと。

150年前からパリに組み込まれた場所と、それよりももっと前からパリだった場所はどう違うのか?その境目はどこなのか?
ペリフェリックとその境目は暴力的な高速道路で分断されている。パリとパリの郊外は大きな差がある。パリの郊外に住む者として大いに痛感する。フランスが中央集権国家であり、その象徴であるパリと、郊外とでは世界が違う。
かつてはパリでなく、後にパリになったベルビルやモンマルトルがあることは知っていた。ただ、具体的な境目は良くわかっていなかった。どうやったら綺麗な境目が見つけられるのか?それは歩いていて感じとれるものなのだろうか?だったら一区一区時間ができたらしらみつぶしに歩いてみたい、なんてことを考えていた。

ある日のこと、グーグルマップでパリを眺めていて大通りをみてふと思った。もしかして、13-20区ってその全ての区が新しく追加されたパリなの?と。

個人的にはものすごい発見だった。そうなると、13-20区(直感で思ってたのは12-20区)は内側の区よりも随分大きいのも納得がいく。

よくよく調べてみたら、確かに書いてあった。
1860年にオースマンが新しく13~20区をパリに追加した(恐らくだが、当時の城壁線に比べて細かいずれはある)。



これが判ると色々と新しいことが見えてくる。
例えば駅の立地。
パリの駅は中心にはない。ちょうど山手線の主要駅のように、すこし離れて6つの駅(北、東、サンラザール、リヨン、モンパルナス、オーステリッツ)が行き先別に点在している。
この位置が実に中途半端なのだ。パリの境目にあるならわかるが、そういうわけではない。随分中途半端な位置にあるし、なんでだろう?と疑問に思っていた。

でも、駅が造られた1840-50年代はまだパリは12区までしかなかったのだ。
そして、それを踏まえてみれば、この時代におけるパリの境界線付近に駅は作られているのがよくわかる。北や東、サンラザール、リヨンは内側に、モンパルナスやオーステリッツは城壁のすぐ外側にできていた。どうして一方が内側でもう一方が外側かはよくわからない。ただ、いずれにしてもこの当時のパリとの境目が見えると、駅の立地の理由も大雑把にだが随分すっきりする。
まがりなりにも自分でこの事実を導き出せたことにちょっと感動した。
駅が境目付近にあったのは、当時がそれが蒸気機関車であり、煙がなるべくこないようにするためだろう。今のオルセー美術館がまだ駅だったころ(そう、オルセー美術館は昔は駅だった)、オーステリッツ駅からオルセーまでの間はわざわざ電気軌道にしていたという。となると、やはり中心に駅を設けなかったのは石炭の煙を嫌がったという環境的な問題なんだろうと予想できる。

そして、凱旋門。
こいつも実に納得がいく。
凱旋門は”門”なのだ。パリの今の境目はかつての城壁の名残でporteと名のつく駅が沢山ある。じゃあ、パリの境目で、パリに凱旋してくる時に入場してくるはずの門が、どうしてパリのちょっと内側にあるのか?
それも、区分けを見ると実に綺麗に出てくる。8,16,17のちょうど境目に凱旋門はある。
当時はちゃんと、パリに帰ってくる時に通る門だったのだ。

そう、もう2つパリにあるちょっと目立たない小さな凱旋門(パリには全部で5つの凱旋門がある)、サンマルタンとサンドニ凱旋門も、パリがさらにもっと小さかった時の境界部分にあるのだろう。
そして、ここは3区と10区の境目じゃないか。と、次から次へと広がっていく。

まだ、12区内のことは詳しくわかってないけど、恐らくトーレスしていけば1-6はそのさらに一つ前のパリの区域で、その後7-12区が追加されたんじゃなかろうかと想像する。
ただ、その理論で言うと1区のはずのシテが4区であるのは変。恐らく現在のルーブル美術館が宮殿として王様たちが住んでいた時に再編されたではなかろうか?それならあそこが一区というのも納得がいく。

まぁ、よくよく考えれば、行政区で新旧の土地を分けるってのは実にシンプルなやり方だから、気付いても良かったのだろう。恐らくパリについて良くまとめあげた本には書いてあるのだろう。けれど、どこかで勝手に行政区は近代になって再編されたに違いないと思い込んでいた。

とても小さな発見だったけど、自分にとっては大いなる発見だった。パリの謎が一つ解けた気がしたから。あぁ、都市の歴史論の面白さってのはこういう所に転がっているんだなとなんだかものすごい納得させられた。

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2011年2月21日月曜日

プロヴァンス地方(殴り書き)

アヴィニョン→城塞が見事なまでに残ってて素敵な街。ちょっとシエナを思い出す、中世の街並み~という感じの落ち着いたところ。フランスの良い景色って、やっぱこういうちょっと中世の田舎町の方がいいよね。パリがフランスの顔であることは間違いないけど、こういう場所もあるんだぜってことは旅行者に伝えたいところ。

Pont du gard→セゴビアの水道橋と比べるとよりシンプルで剛健なイメージ。素朴だけどすごい力強い水道橋だった。周りの河川の景色もすごい綺麗だし、なんとも癒される。ピクニックとか散歩がもってこいの場所だった。あんな橋2000年前に作っちゃうとか凄いとしか言いようがない。しかも、ここまで残ってるんだから。アーチと石とローマ人に感激した。

オランジュ→古代劇場って今までも色んな所で見てきたけど、こんなに残ってる闘技場は初めて見た。そもそも、劇場の形を今まで誤解してたことがこれみて良くわかった。イタリア行った時はまだ古代イタリア史についての知識ゼロだったけど、ローマ人の物語読んでからこうやって、劇場の壁の上に掲げられたアウグストゥヌスの像とか見ると感慨深いものがある。紀元前50年とか…。
それ以前の時代は劇するにしても木製の劇場だったってのもおもしろい情報だったな―。
ポンペイウスやらカエサルやらマリウスやら、2000年前の歴史がちゃんと形に残ってるって、なんかいいよね。


これからアルルとマルセイユへ。
プロヴァンス地方はパリに比べてのんびりしてるし太陽暖かいし、心休まる。

2011年1月21日金曜日

アラブ学のススメ4

とりあえず、一連のアラブ学のススメシリーズも今回で終わりです。


最後は、僕なりに感じた各国の魅力をちょこちょこ紹介しようかなと。


①レバノン
レバノンは中東のパリと言われるらしい。この国にいる間はずっと現地の友達が案内してくれたので地元の人との交流は彼らの家族とくらいしかなかったし、街中も歩き回ったりしたのは一部に限られるので、印象が限定されるのはあるけど、地中海沿いらしく、綺麗な海がいつも見える素敵なところ。


ベイルートは内戦の後を一刻も早く消したい(当たり前だ)思いもあって、今は非常に綺麗な街だ。


中心街には最新の綺麗なショッピングモールが広がり、中央広場もとても華やか。スークもアラブアラブしていないし、落ち着いている。街の人はみなアラビア語意外に英語かフランス語が最低限話せる。アラブの雰囲気を感じられるし言葉も通じる。
多分、ヨーロッパの雰囲気を最も持っている国なので、色々と馴染みやすい。 
そして、アラビア料理はレバノンから始まった。だから、食もおいしい。
まぁ、僕はそれで見事に食あたりになってバールベックに行けなかったわけだけど、それは食べ物がうまいから普通に食ってただけで、たまたま運悪く何かに当たっただけだろう。飯は独特な香りとかあるけど普通にうまい。

歴史も抜群である。アルファベット始まりました☆みたいな国なので古代ローマ時代の列柱とか平気で沢山ある。イタリアで色々とローマ時代の遺跡もみたが、こっちの方が色々綺麗に残ってるような気がする。



その上、山ではスキーもできるので、海で泳いで、車で1時間も上に上がればスキーもできてしまうらしい。この観光資源がレバノンの魅力であろう。
ただ、個人的に、この国が面白いのは、海岸線沿いに都市が発展しているのにそこには平野部がないとこなんではないかと思う。普通は、海があって、平地がちょっとあって、そして山が奥にある、或いはずっと平野とかだと思うんだ。日本は割と急峻で、すぐ山があるって言ってたけどそれでも小さな平地があるところが多い。けど、この国はそれが本当に猫の額くらいしかない。

だから、海岸線と、その先には山の傾斜と山の中腹にまで広がる家々が見えるのだ。これは、初めて見る経験だった。
そう、そしてこの構造が何をもたらすかと言うと…




これである。
そう、レバノンは夜景がものすごく綺麗な街だ。星空みたいに明かりが広がっていて、それが山の中腹まで広がっている。


ただ、この夜景を作りだす大きな原因がある。それが交通渋滞である。


この国には公共交通がない。信じられないかもしれないが、国の動脈は海岸線沿いを走る高速道路と、その横に併設される海岸通りであり、電車は通っていないのだ。かつては通っていたという話もあったが、すたれてしまって今はない。
そうなると、移動手段は当然車になる。だから、朝と夜、通勤時に合わせて恐ろしいまでの交通渋滞がベイルート付近で起こる。これはもう20年も続いている現象らしい。
道路を増やせばいいではないか。これも当然考えるのだが、先に行った通りこの国には平野部が殆どない。だからもう場所がないのだ。そんなものを通す。これ以上道路を作ろうとすると恐らく沿線部の店が無くなって街が成り立たなくなる。かといって山道を通すとものすごい遠回りになるからきっと成り立たない。
もうひとつ。こんな夜景の綺麗な国なのだが、その電気は24時間国から供給されるわけではない。彼等には定常的な電気供給がない。だから、一日12時間しか電気がもらえない。その後は地域ごとのジェネレーターで回している。
信じられるか?そんなこと。電気なんて通って当たり前の自分からしてみたらこれは本当に衝撃だった。突然電気がふっと消えて一分くらい切り替えに時間がかかるのだから…。
そんなわけで土木・都市計画的にも非常に興味深い国である。

もうひとつ、この国を語る上でイスラエルは不可欠なのだが、それはアラブ学の”ススメ”ではないので今回は割愛。

②シリア
シリアはアラブアラブ―な国である。


アラブが基礎のアラビア数字なのに、なんとアラビア文字だとその字形は全く異なる。だから最初は数字も読めない。アラビア語は当然話せない。

でも、シリア人は英語もフランス語も喋れない。Oh my god....
というわけで数字の読み方と発音は速攻で覚えた。
まぁ、こういう時の形も違うし何言ってるかさっぱりわっかんねー。という時はどうするか?
そう、世界共通言語のエスペry・・・・・なんか通じるわけないので、世界共通のジェスチャーでなんとかやりくりする。 ちなみに、ギリシャも割とこんな感じだった。だから魔法の様な言葉をちょっと覚えた。
閑話休題。
シリアも歴史ばんざーいという国である。だって、旧約聖書に出てくる通りがダマスクスにそのままあるんだよ?旧約聖書ておい、お前ちょっとまて!という話だ。
ダマスクスは巨大な街。どこまでも広がっていくのではないかという風に感じられる。
シリアで印象的だったのはマルムーサという砂漠の中にある修道院とパルミラ遺跡である。
マルムーサ修道院は本当に、砂漠の中の山間にぽつんとはまったような場所で、周りにはなにもない場所。それだけに、夜景と、朝日と、星空はとても綺麗だった。
朝日

修道院の裏手
 パルミラ遺跡はシルクロードの一部で2世紀ごろにローマ帝国に併合されたとかだった。このパルミラ遺跡、歩いて回ると3時間くらいかかるのでは?というくらいでかい。つーか、そんくらい歩いていた。




2km×3kmほどに渡って非常に高いレベルで遺跡が保存されている。列柱の並びが本当に美しくて、夕焼けの景色は感動的だった。

後は、クラックデシュバリエという城マニアには涎モノではなかろうかというめちゃくちゃカッコいい城がある。あぁ、戦争で落とされないための城ってのはこういうものが必要なのかと。装飾は一切ない、機能美で固められたその空間に僕と友達はカッコよすぎる…とため息ものだった。

まぁ観光資源は沢山あるのだが、それはこれくらいにしておこう。
もうひとつ、シリアは最も人々が暖かい国である。困っていたら助けてくれるし、道を通り過ぎる人達は本当に快く、一切の下心無し(モノを売りつけたいとかじゃなく)に純粋に僕らのことを歓迎してくれる。あんな素敵な笑顔で人を迎え入れてくれるなんてなんて暖かい人達なんだろう。
アメリカの”テロ支援国家” というイメージからは随分かけ離れている、とても平和な国だ。

街は発展途上で車だらけでちょっと土臭い感じはあるけど、人と人との交流という意味ではなんだかハッとさせられる国。

③モロッコ
モロッコは最も長くいたのでちょっと上2つと比べると印象も違うのだが、この国がもっとも面白いのは旧市街である。
モロッコはフランスに統治されていたのだが、旧市街があまりに複雑で迷路のような構造だったので、それはそのまま残して、隣に新市街を作った。だから、旧市街は10世紀前後からそのまま残っているままである。


マラケシュ、フェズという代表的な都市の構造はまさに迷路で、フェズで僕等は見事に迷子になってダンジョンから出られなくなった(マジで)。地図を持っていても全ての道が曲がりくねりながら、しかも目印も何もないので方向感覚なんて一瞬で消える。


フェズ旧市街を上から眺める。

そんなこの街の旧市街のスークは観光客も地元の人も、猫も、馬も、バイクも同じ道を通るというなんともカオティックだけどとても熱気的な街だ。東南アジアとは違った熱気があって歩いているだけで面白い。
海沿いの街も、砂漠も、山間の街も沢山回ったけど、モロッコの魅力は旧市街に凝縮されている。
スークの魅力を最も感じたい人にはモロッコが面白いのではと思う。

おまけ②砂漠
ちなみに、砂漠は感動!という一気に押し寄せてくるものではなく、なんだか後からじわじわと迫ってくる感覚を与えてくれる。僕が砂漠に泊った日は満月だった。だから、星はほとんど見えなかった。代わりに、ずっと遠くまで砂の山や、砂の広がりが月明かりに照らされて見えるのだ。砂の山に登って見渡す景色は風の音と自分の呼吸音しか聞こえない。こんな孤独な世界にサンテクジュペリは落ち、アラブの行商人たちは何もない中を進んで行ったのかと。
ただ暗闇と砂が広がる砂漠の景色

月明かり







④アラブという国々


アラブの世界は言ったことない国もまだまだ沢山あるけど、やはり、人が暖かい。そして、とにかく時間がゆっくりと流れている。
フェズでカメラを向けたらポーズを決めてくれた子供たち
特にモロッコとシリアで感じた僕の印象は、彼等は今という時間を存分に楽しんでいるということ。
レバノンはすごい勢いで発展しているけど、でも根幹部分は変わっていないように思えた。
ゆっくりと成長はしているものの、彼等は東南アジアのように発展したい!先進国に追いつきたい!といったあの独特の熱気はあまり感じられない。その一方で、このままこの生活を続けても、幸せならそれいいじゃないか。そんな気持ちが感じられる。

いかにも!な肉屋。ここのサンドイッチはたまらなく好きだった



ゆったりティーを飲んでシーシャを吸って、友と語らい、スークの喧騒の中、今を楽しむ。
これがずっと続いてきて、これからもずっと続くんじゃないかと思わせてくれる国々がアラブだった。

僕らが猛スピードで駆け抜けていつの間にか忘れてしまったモノがこの国々には到る所に広がっている気がする。
始めのモロッコがこれだったから、僕は改めてアラブにはまったのだと思う。


ヨーロッパを回るのは勿論面白い。けれど、それとはまったく違ったアラブ文化にも足を延ばして見て欲しい。
そして、ゆっくりとティーを飲みながら、10年後に訪れても変わらずの世界が広がっているのだろうかと思いを巡らせるのもいいのではないかと思う。


まぁ、ざっとこんな感じか。
語ればまだまだ幾らでもでてくるのだけど、尽きることはないのでここら辺で終わりにしよう。

物理的距離以上に心理的距離の遠いアラブ諸国に魅力を少しでも感じてくれたなら幸いで、もしもこれに触発されて、僕みたいに卒業旅行でモロッコ行ってみました!みたいな人が増えたらそれはもうしてやったりである(笑)