2011年4月9日土曜日

パリを考える1-パリと境界-

随分とブログを放置してしまった。1とつけたのは続きを書こうと言う自分への戒め。


まだまだ、この街には知らないことがいっぱいある。

それは、さりげなく、いや、別に隠されているわけじゃないのだけど、良く見ないと気付かない。そんな所が沢山ある感じ。

パリをふらふら歩いたりしつつ、今学期は
・フランス人との交換授業でナポレオン3世のパリの歴史についての勉強
・フランス語の授業のテーマがオルセーの作品などを通じて、美術の解説技術を身につけつつ、オースマニアンを読み解く
というちょっとアカデミックなアプローチも踏んでいる。

この勉強を始める前から、パリの境目について興味があった。
パリは城壁都市だ。シテ島という小さな小さな島から始まって、城壁を作っては壊して、作っては壊して、と脱皮を繰り返して大きくなってきた。
最後の脱皮をして、今のパリの大きさが規定された。その城壁は環状高速道路(ペリフェリック=英語で言う所のring)になった。その一つ前の時代、オースマンの時代に最後の脱皮によって城壁は取り壊され、パリは大きくなった。今から150年前のこと。

150年前からパリに組み込まれた場所と、それよりももっと前からパリだった場所はどう違うのか?その境目はどこなのか?
ペリフェリックとその境目は暴力的な高速道路で分断されている。パリとパリの郊外は大きな差がある。パリの郊外に住む者として大いに痛感する。フランスが中央集権国家であり、その象徴であるパリと、郊外とでは世界が違う。
かつてはパリでなく、後にパリになったベルビルやモンマルトルがあることは知っていた。ただ、具体的な境目は良くわかっていなかった。どうやったら綺麗な境目が見つけられるのか?それは歩いていて感じとれるものなのだろうか?だったら一区一区時間ができたらしらみつぶしに歩いてみたい、なんてことを考えていた。

ある日のこと、グーグルマップでパリを眺めていて大通りをみてふと思った。もしかして、13-20区ってその全ての区が新しく追加されたパリなの?と。

個人的にはものすごい発見だった。そうなると、13-20区(直感で思ってたのは12-20区)は内側の区よりも随分大きいのも納得がいく。

よくよく調べてみたら、確かに書いてあった。
1860年にオースマンが新しく13~20区をパリに追加した(恐らくだが、当時の城壁線に比べて細かいずれはある)。



これが判ると色々と新しいことが見えてくる。
例えば駅の立地。
パリの駅は中心にはない。ちょうど山手線の主要駅のように、すこし離れて6つの駅(北、東、サンラザール、リヨン、モンパルナス、オーステリッツ)が行き先別に点在している。
この位置が実に中途半端なのだ。パリの境目にあるならわかるが、そういうわけではない。随分中途半端な位置にあるし、なんでだろう?と疑問に思っていた。

でも、駅が造られた1840-50年代はまだパリは12区までしかなかったのだ。
そして、それを踏まえてみれば、この時代におけるパリの境界線付近に駅は作られているのがよくわかる。北や東、サンラザール、リヨンは内側に、モンパルナスやオーステリッツは城壁のすぐ外側にできていた。どうして一方が内側でもう一方が外側かはよくわからない。ただ、いずれにしてもこの当時のパリとの境目が見えると、駅の立地の理由も大雑把にだが随分すっきりする。
まがりなりにも自分でこの事実を導き出せたことにちょっと感動した。
駅が境目付近にあったのは、当時がそれが蒸気機関車であり、煙がなるべくこないようにするためだろう。今のオルセー美術館がまだ駅だったころ(そう、オルセー美術館は昔は駅だった)、オーステリッツ駅からオルセーまでの間はわざわざ電気軌道にしていたという。となると、やはり中心に駅を設けなかったのは石炭の煙を嫌がったという環境的な問題なんだろうと予想できる。

そして、凱旋門。
こいつも実に納得がいく。
凱旋門は”門”なのだ。パリの今の境目はかつての城壁の名残でporteと名のつく駅が沢山ある。じゃあ、パリの境目で、パリに凱旋してくる時に入場してくるはずの門が、どうしてパリのちょっと内側にあるのか?
それも、区分けを見ると実に綺麗に出てくる。8,16,17のちょうど境目に凱旋門はある。
当時はちゃんと、パリに帰ってくる時に通る門だったのだ。

そう、もう2つパリにあるちょっと目立たない小さな凱旋門(パリには全部で5つの凱旋門がある)、サンマルタンとサンドニ凱旋門も、パリがさらにもっと小さかった時の境界部分にあるのだろう。
そして、ここは3区と10区の境目じゃないか。と、次から次へと広がっていく。

まだ、12区内のことは詳しくわかってないけど、恐らくトーレスしていけば1-6はそのさらに一つ前のパリの区域で、その後7-12区が追加されたんじゃなかろうかと想像する。
ただ、その理論で言うと1区のはずのシテが4区であるのは変。恐らく現在のルーブル美術館が宮殿として王様たちが住んでいた時に再編されたではなかろうか?それならあそこが一区というのも納得がいく。

まぁ、よくよく考えれば、行政区で新旧の土地を分けるってのは実にシンプルなやり方だから、気付いても良かったのだろう。恐らくパリについて良くまとめあげた本には書いてあるのだろう。けれど、どこかで勝手に行政区は近代になって再編されたに違いないと思い込んでいた。

とても小さな発見だったけど、自分にとっては大いなる発見だった。パリの謎が一つ解けた気がしたから。あぁ、都市の歴史論の面白さってのはこういう所に転がっているんだなとなんだかものすごい納得させられた。

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