2012年10月16日火曜日

明治のあれそれ。


今日は一日東京駅丸の内駅舎復元記念講演会、なるものに行ってました。
北河大次郎さんや、藤森先生、小野田さん他、JRや三菱系関係者など色んな人が当時の状況を色々と話していてくれてなかなか面白いものも多かった。

印象的だったことを2点ほど。

①外堀。




とても印象的だったのは、上の画像のような、外堀がまだ埋まっていないころの東京駅の俯瞰図の写真。ネットじゃいいものがみつからなかったけど、東京駅は最初は八重洲口の方には操車場があって、そのすぐ裏手には外堀(がまだ水が流れていた)があったんだよね。
その水路の関係もあって、新橋もちょうど駅の真裏には水路が流れている、みたいな地図もまた印象的だった。

いや、外堀通りとか、鍛冶橋とか色々橋の名前があるから外堀だったことはわかるのだけど、こうして写真を改めてみるとしみじみと感じるわけ。

昔は旭川駅(駅の裏に創成川が)みたいに、駅と川と近いところだったんだなぁと。
大阪が最近水都大阪として色々動かしているけど、東京だって昔は本当に水都だったのに、もうその面影はあまりみられない。今回の駅舎復元はなかなか素敵だと思うけど、空中から写真を撮ると、特別容積率で巨大化した超高層達に囲まれているかのようなのよね。上から東京駅みれるってのもまた一興なのかもしれないけど。

チョンゲチョンのようにじゃあ外堀を全部またひっくり返して元の水に戻した方が良いのか、といわれるとそれも違う気がするのだけど、橋を渡るときに、すっと景色が開けて遠くが見れるあの感覚はもうちょっとあってもいいのかなぁ、とか思ったりするのです。

②高架のこと
ベルリンに行って、あー、すげぇ東京っぽいなぁと感じたのだけど、その直感は当たっていたらしい。明治のお雇い外国人で鉄道関係はドイツ人を呼んでいたらしく、高架橋もドイツのエンジニアがデザインしたそうだ。そもそも、ヨーロッパ都市であんな都市内にガンガン鉄道を高架で通してるのって基本的にベルリンくらいしか記憶がない。(メトロとかはパリでも6,2番線とかは通っている)

日本の鉄道、といえば新橋~横浜が初め。その後、上野から北に延びたり、品川から新宿経由で赤羽に延びたり、西に延びたり、とまぁ色々発展してく。
その当時から、日本の縦断するような鉄道として、上野と新橋をつなぐよていだったらしい。そして、中央停車場(=東京駅)は、東京の中央、というより日本の中央として中央停車場と位置付けられていたそうな。
研究室の見学会や、授業なので、国鉄にとって山手線の環状運転は夢だった(それまではのの字運転していた)という話は聞いていた。
だが、新橋~上野は市区改正の時からこれを建設するにあたっては高架でやるべし、という話だったのは全く知らなかった。
詳しくは↓とか
http://www.geocities.jp/a1115b/sub36.htm.htm

今まさに、東北縦貫線として神田で工事をやっているけど、その始まりは明治の時なのかと。当時はまさか新幹線なんて通すとは思ってなかっただろうけど、新幹線の上にさらに2重高架でこうやって工事してるなんて、往年のエンジニア達からみたらちょっと感激的なのかもしれないね。