2012年12月30日日曜日

農家日誌⑦ 野菜の売られ方3

今まで2回は出荷の形態について書いていたが、出荷の前の話はしていなかった。

働き始めて数日はレタスやキャベツの収穫をしたり、草むしりしたり苗植えしたりしていた。

初めてレタスの収穫をした時、レタスはまずひっくり返してウォッシャーというホースみたいなので水を吹きかけて、茎の根元からでる白い液をのぞかないといけない事を知った。
ウォッシャーをしないと我々が想像する綺麗なレタスにならないから、である。レタスはすぐに傷んでしまうのでいたんだものや小さいものはそのまま畑に捨てられて土おこしで踏みつぶされる。


キャベツの収穫をした時は、見栄えがいいように外葉を一枚だけ残してうまく切らないといけないと知った。見栄えと、おそらく痛みにくくするため。小さいのはこちらも形には残らない。

この時は特に大きな疑問は持たなかった。小さいと値崩れしてしまうのは自明だったし、多少痛むもの仕方がないから。

数日たって、初めて大根を引っこ抜いた。
大根は、抜いてみるまでどうなっているかわからない。
200本抜いたら160本くらいしか物にならない。

ヒビが縦に入っていたら、すぐその場で捨てる。
二股に分かれていたら、やっぱりその場で捨てる。
あまりに曲がっていたら、その場で捨てる。
小さくても捨てる。

引っこ抜いて大丈夫なものを、根こそぎ包丁で葉っぱを落としていく。

そうして持ち帰ったものを、専用の大根洗い機(車の洗浄マシンみたいな感じ)に一本一本通して洗うのだ。大根がいつも白いのはそのおかげ。考えてみれば当たり前なのだけどスーパーの大根はいつもあの白いのだったから何かを忘れていたらしい。ここで、農家が自腹を切って機械を買って洗っているから(結構重労働)大根は白いのだ。ちなみに洗わない大根は別の注文形態としてあるが割合としては少なく、基本的にJAに出荷するのは大体洗っていた。
後から気付いたが、ウォッシャーもレタスのためだけに買っている。


そして、ここのJAでは900g以上の大根が正規の大根。700,800だと値段は半分になってしまい、700g以下は商品として認められず廃棄される。

捨てられた野菜は、有機農業なので畑に戻して養分にする。

それでも、曲がった大根も、ちょっと二股に分かれた大根も、全て捨てられてしまうのだ。

苦労して3カ月育てた野菜を捨てるのは忍びないだろう。収入にもならない。

お父さんは言っていた。昔は有機農業って言えば少しくらい曲がっていても許されていたけど、いつの間にかみんな大根ったらまっすぐで大きい奴しか認めてくれなくなったんだよ、と。
きゅうりやナスだって曲がっちまうんだけど、それも商品にはならない。味は変わらないのにね、と。


大根は白くて、まっすぐじゃないと、というのが当たり前になった。少なくとも僕はそれに見事なまでに感化されていた(ジャガイモとか人参はもっと泥まみれなイメージあるけど)。

野菜かくあるべし。
そんな都市側の欲求の帳尻合わせを見えないところで必死になっているのが現場の農家なのである。

野菜の売られ方は農家にはまだまだとても厳しい世界なのではないだろうか。きっと他の一次産業の現場でも似たような事が起こっているのではないだろうか。

2012年12月28日金曜日

農家日誌⑥ 野菜の売られ方2

※これは僕が北軽井沢の有機農園でバイトをした経験と本で得た知識を元に書いていますのでサンプルはn=1なので実態が普遍的なわけではないですよ。あしからず。

「けれどもね、契約農家も完全な契約ではないんですよ。どうしてか、わかります?」

それは、農家というのが根源的にリスクの塊だから、であった。

当然ながら野菜の成長の如何は大きく天候に左右される。向上のように必ず一定数ができるわけではない。前年はとうもろこし畑がクマに荒らされてしまい一本も収穫できなかったそうだ。

そうなった場合、完全なる契約にしてしまうと規定数の出荷が出来ない場合に違約金を取られることになってしまう。大きな収穫がない場合も勿論問題だが小さな変動はいくらでもあるし、必ずしも狙ったように野菜は大きくなってくれるとは限らない。

そうなると、どうしても緩い契約をしておかないとリスクを背負い切れないのだそうだ。

結果、どうなるかというと、契約相手も必ずしも契約を完全には守らない。豊作でJAの市場価格が安くなると契約は破棄されて農家のそれは買ってもらえないのだそうだ。それも、有機農園だから多少のプレミアがついていてこの現状である。普通の農薬を使った農家であればそもそも契約農業それ自体も厳しいのかも、しれない(ここは良く知らない)。

ここが、現代農業の非常に大きな弱点だと思うが、どうあっても基本的に最終生産者が大きなリスクを全て抱えないといけない。それでもJAは税を取るし、運搬料金も変わらない。小売も仕入れ値に%で上乗せしていくのだから、基本的に利益構造はできている。しかし農家は豊作になれば値が崩れ、凶作になれば収益も減る。そういった帳尻合わせは全て農家が行っている。若者を農家に!とは言っても根源的にリスクを背負い弱者である農家にそこまでなりたい人が続出するであろうか。

ちなみに、JAは市場価格に左右される一方、いくらでも出荷出来ると言ったが、JAのメリットはもう1つあって、それは入金が非常に早いこと。納めて10日くらい以内には入金されるらしい。基本的に農家は収穫ができるまでは収入がない。最初の数カ月はずっと借用金、ツケでなんとかしないといけない。当然早く金を返さないと利息が付いてくる。こうした中、契約農家よりも圧倒的に早く入金してくれるJAはある意味ありがたいらしい。とはいえ、JAも地方によって全然強さが違っていて、強いJAのところでJA以外にも出荷しているのがわかると露骨に嫌がらせされる、とかはあるそうだ。


野菜の売られ方、もう一回だけ続けます。最後は収穫で気づく売られ方。




2012年12月2日日曜日

農家日誌⑤ 野菜の売られ方1

※これは僕が北軽井沢の有機農園でバイトをした経験と本で得た知識を元に書いていますのでサンプルはn=1なので実態が普遍的なわけではないですよ。あしからず。


最近は、契約農業が主流かなぁ。

と雇い主は言っていた。有機農業だから、というのもあるが、確かにJAに出荷する分に加えて某居酒屋チェーンに出荷したり~さんに出荷と色々あった。某チェーンカフェからも契約の話が来ているそうな。

野菜と言えばJAと僕は思っていた。実際、JAに納める野菜の量は沢山あったから。一日でレタス80ケース(1つ14個入りとか)とか普通に出荷したりしていた。


ある日、そのJAに野菜を出荷すると、奇妙な張り紙が。

販売額が書いてあるのだが、手取りが 0円

となっているではないか。野菜を売ってるのに0円??
良く見ると流通代と箱大で2/3を占めている。そこに市場手数料、JA手数料、冷却代、etcがかさむと農家の手取りは0 らしい。

ようするに、農家は箱代を還元(段ボールは事前購入)しかできないのか?汗水たらして10kgのレタスを出荷して。

すごい腑に落ちなくて、数日後そのことを聞いてみると、実際その通りだった。

JAというのは必ずしも悪魔ではない。まぁ色々ろくでもない評判は聞くが。

JAの野菜の買い取り価格は全て市場価格に左右されるらしい。つまり豊作だと値崩れする。今年はキャベツがそうだった。嬬恋などで恐ろしくキャベツが取れた今年のキャベツの値の崩れ方はすごいらしい。だから、市場価格が高い時は儲かる。だけど、0円のときだってある。それにJAはいくらでも野菜を引き取ってくれる。

契約農業が主流、というのはそういうことだ。
ある程度一定の安定した(=農家に利益が出る)価格で売るためには契約農業が良いらしい。大体毎日nケース出荷と決まっている。安定した収入口を手に入れるには契約農業が大事のようだった。

なるほどな、と思った後雇い主はこう続けた。


「けれどもね、契約農家も完全な契約ではないんですよ。どうしてか、わかります?」





2012年11月30日金曜日

農家日誌④ 食える、のか

僕が働いていた農家はいわゆる専業農家だった。

一度、率直に聞いてみたことがある。

~農園では農業だけで食べていけるんですか?と


答えは、うちはやれてる。

だった。

これはある意味正解で、ある意味不正解なのではないかと思う。

農園は主を引いたお父さんとお母さん、雇い主とその奥さんと娘さん、おばあさん、の6人である。

北軽井沢は高原のため冬が早い。勝負は5~11月であって、11月末には霜が降りてしまいそのあとは野菜が栽培できないそうだ。

お父さんの世代では冬に出稼ぎにいったそうである。林業やスキー場、色んな事をしていたという話をお酒を飲みながら教えてくれたことが会った。

今は畑が使えなくなった後、最後の後片付け(ビニールはがしたり、土をならしたりだと思われる)をして、たまった事務処理をして2月からまた土を起こして、種まき(恐らくハウスで)をして、と作業が始まる。その間の2カ月はオフになり、雇い主も基本的にやらないといけない仕事はない。もっとも勉強や情報収集を行ったりとやることはあるみたいだが。

その意味では野菜を売った収入だけで家族全体を養えているし、スタッフに給料も出せてはいる。

一方、僕が働いていたバイトによる短期の他に、長期で働いているスタッフもいる。スタッフはシーズンオンである5~11月はフル稼働(週6)で働き、その間は住み込み食事つきで給料が出る。僕等のようなバイトよりも給料は大分上がるらしい。仲介を通さないのでその分のマージンもないし。

しかし、彼等もオフシーズンは仕事ができない。冬場仕事がない時期に遊ばせておく余裕はないのだ。従って、オフは各自が自力で行きぬかないといけない。冬場は実家に戻る人、旅館で住み込みで働く人、色々と選択肢があるようだった。それに、基本的には契約は単年度らしい。
貯金はできるかもしれないし、ああいった生き方も勿論ひとつの生き方だと思う。都会ではもう暮らせないという人もいた。
けれど、ああいう雇用形態では福利厚生も厳しいし、安定した仕事にはなかなかなれない。結婚して子供が産まれてその先どうするのか。実はスタッフの一人は結婚してまさに子供が生まれていたがはたして来年以降もずっと続けて行くのだろうか。

長期的に通年で雇用、という形は今ではきっとできないのだろう。
準レギュラー的な彼等を真の意味で食わせられる、と問うならば答えはNOなのではないだろうか。


通年でスタッフを雇おうとすると冬場に加工をして販売を、、というスタイルをとらないといけないらしい。しかし、その分の投資、人件費、安定して冬場も収穫、その部分でのリスク、といった部分をああいった寒冷地の有機農業でやるのはかなり厳しいという話をしていた。
あのあたりでは比較的大きな農園16haであるが、その体力である。他の農家でも基本的に通年雇用というのは難しいのであろう。

若者に就農を!というキャンペーンも出ているが、雇用先での安定保証がない実態(基本的に農家は零細なわけで、農業法人の力はまだ強くないはず)でこうしたキャンペーンを掲げてもまだまだ、”食える”世界にはなかなかならないのではないだろうか。






2012年10月16日火曜日

明治のあれそれ。


今日は一日東京駅丸の内駅舎復元記念講演会、なるものに行ってました。
北河大次郎さんや、藤森先生、小野田さん他、JRや三菱系関係者など色んな人が当時の状況を色々と話していてくれてなかなか面白いものも多かった。

印象的だったことを2点ほど。

①外堀。




とても印象的だったのは、上の画像のような、外堀がまだ埋まっていないころの東京駅の俯瞰図の写真。ネットじゃいいものがみつからなかったけど、東京駅は最初は八重洲口の方には操車場があって、そのすぐ裏手には外堀(がまだ水が流れていた)があったんだよね。
その水路の関係もあって、新橋もちょうど駅の真裏には水路が流れている、みたいな地図もまた印象的だった。

いや、外堀通りとか、鍛冶橋とか色々橋の名前があるから外堀だったことはわかるのだけど、こうして写真を改めてみるとしみじみと感じるわけ。

昔は旭川駅(駅の裏に創成川が)みたいに、駅と川と近いところだったんだなぁと。
大阪が最近水都大阪として色々動かしているけど、東京だって昔は本当に水都だったのに、もうその面影はあまりみられない。今回の駅舎復元はなかなか素敵だと思うけど、空中から写真を撮ると、特別容積率で巨大化した超高層達に囲まれているかのようなのよね。上から東京駅みれるってのもまた一興なのかもしれないけど。

チョンゲチョンのようにじゃあ外堀を全部またひっくり返して元の水に戻した方が良いのか、といわれるとそれも違う気がするのだけど、橋を渡るときに、すっと景色が開けて遠くが見れるあの感覚はもうちょっとあってもいいのかなぁ、とか思ったりするのです。

②高架のこと
ベルリンに行って、あー、すげぇ東京っぽいなぁと感じたのだけど、その直感は当たっていたらしい。明治のお雇い外国人で鉄道関係はドイツ人を呼んでいたらしく、高架橋もドイツのエンジニアがデザインしたそうだ。そもそも、ヨーロッパ都市であんな都市内にガンガン鉄道を高架で通してるのって基本的にベルリンくらいしか記憶がない。(メトロとかはパリでも6,2番線とかは通っている)

日本の鉄道、といえば新橋~横浜が初め。その後、上野から北に延びたり、品川から新宿経由で赤羽に延びたり、西に延びたり、とまぁ色々発展してく。
その当時から、日本の縦断するような鉄道として、上野と新橋をつなぐよていだったらしい。そして、中央停車場(=東京駅)は、東京の中央、というより日本の中央として中央停車場と位置付けられていたそうな。
研究室の見学会や、授業なので、国鉄にとって山手線の環状運転は夢だった(それまではのの字運転していた)という話は聞いていた。
だが、新橋~上野は市区改正の時からこれを建設するにあたっては高架でやるべし、という話だったのは全く知らなかった。
詳しくは↓とか
http://www.geocities.jp/a1115b/sub36.htm.htm

今まさに、東北縦貫線として神田で工事をやっているけど、その始まりは明治の時なのかと。当時はまさか新幹線なんて通すとは思ってなかっただろうけど、新幹線の上にさらに2重高架でこうやって工事してるなんて、往年のエンジニア達からみたらちょっと感激的なのかもしれないね。







2012年9月5日水曜日

農家日誌③


作業は早朝・午前・午後の3セットで合計10時間ある。(たまに9時間)

これが週6で1セット、がスタッフ。毎日スタッフやバイトに指示を出す雇い主は5~10月のシーズンずっとこれが続くのだ。。農家の人はほっとんどみんな腰をやられてしまうそうだ。本業じゃないので自分は申し訳ないが途中で辞めさせてもらったけれど、彼らはそうもいっていられない。


早朝が一番大変だ。収穫は時間との戦いなので3時間全く休憩がない。


農家の朝は早い。といっても自分のところは早すぎるわけではないので、5時から作業が始まる。早いところは2時からライト当てて作業するんだとか…

5時には実際に作業を始めるのと、車で畑まで行かなくてはいけないので10分前には動き始める。長靴をはいたり、レインコートを着たりなんだりで15分前には外に出なくてはいけない。

従って、4時半に起床。まだ外が少し薄暗い。4時半なんぞ、普段は起きれたものではなかったが、作業が終わると疲れて寝てしまい、すぐさま前にずれこんでいく。

悲しいかな、東京に戻った瞬間にその健康的生活リズムは無に帰した。


早朝は必ず収穫を行う。そのほとんどがレタスからだった。理由としては恐らく朝露とかがついていてしなびてない状態が良いのと、予冷の時間の関係だろう。

なんとなく、早朝に収穫した野菜はそのままその日中にすぐさまトラックで運ばれて市場に行き、そこで冷やされて後はスーパーまで、と思っていたのだが、野菜は出荷物によるが、いたみやすいものは基本的にまずは予冷庫で芯までしっかり冷やさなくてはいけないらしい。その方が結果として鮮度を保てるからだそう。
近所の農家数件共同出資をして予冷庫を持っていた。もちろん、JAに出すのであれば入れなくてもそのままJAに出荷すればJAの冷蔵庫に入れられるのだけど、ここは後述。

さて、レタス畑に行って、女子チームと雇い主がひたすらきって並べていくレタスをウォッシャーでまず汚れと茎からでる白い液を洗い流し、ケースや段ボールに詰めていくのだ。

多い時には段ボール100個分(なので、1200個は詰めていることになる)。急いで詰めて、段ボールを次々とトラクターに乗せていく。

レタスも出荷先によって色々規定があるのだ。
~さんには12個詰め。ここは11個。JAなら12~14で10kgになるように、などなど。

とにかく中腰になる。日にっては10kgの段ボールを詰めて運んでまた詰めてというのを1時間半ほど繰り返していく。


レタスが終わると今度はサニーレタス、或いはトウモロコシ、大根など。その日の注文や野菜の成長度合いによって決まるらしい。他の野菜は他の野菜で色々箱詰めまでの工程があるのだがここでは略。

作業はとりあえず8時まで続く。

8時になると朝食だ。

ここの農家は随分長いことバイトさんを雇って作業をしていることも会って、バイト用にコンテナハウスやアパートがあり、食堂もある。

食堂でバイトやスタッフ、家族と合計15人程度で一緒にご飯を食べる。
雇い主の奥さんは主に料理を担当する。毎食15人分。
レストランとかにあるようなコンロが3つ。

やんちゃな娘をあやしつつ、毎食あんなに沢山作らないといけない。農家の嫁は大変だ。

ご飯を食べて、10分~15分くらい休憩するとまぁだいたい9時10分前になってしまうので次なる作業へ向かう。

午前・午後は別の野菜の収穫だったり、草取りだったり苗を植えたりする。早朝ほどのペースではなくて、3時間、4時間の作業だがちょっと休憩が入るから。

昼休みは2時間あるが、大概疲れて昼寝をしてしまう。

18時の作業後は19時に飯を食って、洗濯して、シャワーを浴びたら(湯船はない…)、1時間もすれば疲れて10時には寝てしまう。

二日目の朝、さくっと起きれるじゃん、と思った矢先、太ももの裏のありえないほどの筋肉痛(痛くてストレッチ出来ないほど)と腰痛を覚えた。

すっと起きれない。屈むのもしんどい。こんなのずっと続けられるの??と思いながらも作業に向かうしかなかった…




農家日誌②

訪れた農家には若いスタッフが沢山いた。

自分みたいに短期(数週間~数カ月)でやっている人、それから以前働いて今回は準スタッフとして働いている人が数人。合計平均6、7人。

雇い主は父の仕事を譲り受けてまだ30ちょっとすぎ。勿論父も母も農業を続けている。

北軽井沢は標高が高い(1000mクラス)なので非常に涼しくて、夜は布団をかぶらないと寒くて起きるほど。夕方は気温が20度程度だっただろうか。

高原野菜としてレタス、キャベツ、白菜などを中心に20種類ほどの野菜を作っているようだった。

自分が関わった野菜は
レタス、キャベツ、白菜、大根、トウモロコシ、サニーレタス(ちょっと赤い奴ね)、セロリと言ったところ。

最初に到着した日はすでに昼だったので、その日は最後の午後の作業だけ参加した。
到着してすぐ、どうだい?やるかい?とお父さんに言われ、すぐさま返事をしたので勝手は何もわからない。

最初にやった作業は草取りだった。

中腰で一人畝を2列分担当しながらひたすらビニール(マルチという)の隙間や野菜の隙間からでてきた雑草を抜いていくのだ。これが3時間。

後から知ったことだが、有機農業(特別栽培と聞いた)なので、化学農薬は使えないため、まずはマルチというビニールで基本的に土が出ないようにしてビニールで覆い、そこに穴をあけて苗を植えることで雑草をつきにくくしているらしい。(保湿や畝が崩れないようにする効果もある)
とはいえ、除草剤をまいていないのでどこからともなく奴らはやってきて、恐ろしいスピードで成長する。
こうなると邪魔でしょうがないので大体1度か2度、雑草を抜かないといけない。
田んぼだといろんな機械が入っているし、草刈り機とかのほうが寧ろイメージしやすいせかいなのだが、現実は非常なり。
とにかくひたすらみんなでのろのろ歩きながら雑草をしらみつぶしに抜いていく。そうしないと野菜は綺麗に育たない。

現代有機農業は虫に食われても、形が崩れても、小さいものも全て受け入れられない。

そのことを知った(というか認知しなおした)のは最後の方だったが、とにかく草取りってのが一番大事な作業だよという話を聞いた自分はとりあえず一生懸命草を抜き続けた。

ご飯を食べて翌朝、無事に4時半に起きた自分は何だ意外といけるじゃん。

そう思った。甘かった。僕がこの時働いたのは一日のうちの一番楽な時間帯、それも、たった3時間にすぎなかった。



2012年9月3日月曜日

農家日誌①

本当はし明後日までの予定だったが、腰を痛めて切り上げてしまった。

合計16日間。短いようで長い、精神と時の部屋のような体験。

学生最後の夏休み、僕は農家で働いていた。

とても貴重な経験だったので例のごとく飽きない限りここにまとめていこうと思う。

そもそも、なんで農家に行こうと思ったか。きっかけはいくつかあった。小さな刺激が相対となって今回の行動につながったと思う。

1つは授業。地味なもんだが、土木を学ぶ自分が農業に触れることなんぞ原則ない。農学部は道路を挟んだ別のキャンパスにあるし、教養の時も積極的に授業を取ろうとは思わなかった。

とある国土に関連する授業のゲスト講師が農学部の先生で、日本の農業の厳しさ(なんとなくはわかっていたが)を聞いた。ブランド化に成功し、輸出も行っている果実や肉がある一方でごく平均的な野菜は苦しめられていること、かなり厳しいことを聞いた。

そのあとは何があったのかあまり思い出せないが、M1になって自主勉強会をやった時のある時のテーマは農業についてだった。当時きいた、ブランド化に成功したもの、そして、鮮度の関係で海外の安い野菜には負けないものはこの先きっと生き残るだろう。問題はそうじゃない中間のものだという話をしていた。(結果としてこの前提は覆ることになる)

大きな変り目になったのは研究室の調査で行った大分のある市だった。そこで棚田の調査をしていた自分、と研究室が見ている美しい棚田、と実際に暮らしている人達からみた作業が大変で本当は続けたいわけじゃない棚田という現実に出会った。棚田の風景は美しい。本当に綺麗でだからこそ自分の中で咀嚼しきれない姿がそこにあった。

このあたりから、農家を体験してみたいという思いが芽生えていた気がする。

本を色々読んでみたが政策側、消費者側からみた話が多くて体験的に農業がなんたるか、を理解が出来ないのだ。


そして、フランスに留学中の休みを使ってスペインはグラナダに行き、住み込みで働く代わりに食・住を提供してくれるマッチングサイトがあり、きっと日本にもそういうのがあるよ?と知り合ったフランス人に教えてもらう。(今回僕が使ったのはボラバイト、というところである。)

留学中にインターンをし、知識と実践の相互作用の大きさを改めて認識した自分は、フランスに帰る前から最後、時間が取れる時に農家で働こうという思いを決意していた。

日本に戻って再び一次産業関連の本を読んでいた。

農家だけでない。林業も、漁業も、生産者(つまり末端)はみな厳しい立場におかれ、加工業者、流通業者、小売に対して圧倒的弱者でいる。資源関連もそうだ。途上国で資源を輸出し開発をしてもらっている国に対しては正直しっくり納得ができないところがある。

根源である資源(野菜も、魚も、木も、金属も)の価値ってのはあまりに低いんじゃないか?加工・流通などあまりに力が強すぎやしないか?どうしてこんなに安く僕等の手に物が届くのか?

あーした方がいい、こうした方が良いといった様々な提案は大概が消費者や小売など、下流側の人間達による意見が多いが、これって僕等の押し付けなのではないか?実際そんなことしている余裕が生まれる世界なのだろうか?(6次産業化とか、観光農園とか)

僕等消費者が見ている風景の裏にある農家の生活のリアルを、都市計画という世界にこれからつかる僕は想像できるのだろうか?今わからないままだとあの時棚田で感じた疑問をずっと抱え続けながら仕事をしていくことになるのではないか?

そんないろんな想いが混じって、最終的に北軽井沢にあるとある農家に行くことが決まった。

2012年5月26日土曜日

music life. コンサートレビュー

昨日は、知人の姉がピアノを弾くというのに招待されて、生まれて初めてピアノデュオコンサートに行ってきました。

考えてみれば、プロのピアノを聞くこと自体が今回初めてだったのです。

しかも今日のコンサートは現代縛り。ライヒだって名前はしってるけどさ、程度。吉松隆はギターしかしらないし、という中行ってきました。
コンサート、素晴らしかった。いわゆる敬遠されがちな現代物なのに、すごいすっと入りこめました。

とてもとても素敵だったので、いくつか曲をご紹介。

まずはスティーブライヒのピアノフェイズ。ミニマル音楽の創始者ですよね。なんというか潜り込ませてくるのに、ある一線を越えるとピアノからひっぺがされるような、不思議な空間。

そのあとのソロがまた素晴らしかった。一目ぼれしてしまうカッコよさ。
fitkinのrelentという曲。頭から離れない。こういう、一度聞いた時にビビッと来る曲に出会えることってのは至福だと思う。


もうひと方が弾いていた、こちらは癒しの極地のような曲。
誕生日のロマンス、吉松隆
本人の音とすごいマッチしていた。優しい音だった。

同じく吉松のランダムバード変奏曲。架空の鳥ランダムバードについての曲らしい。
吉松は響きというかメロディの中に何かを見出そうとした人なのでしょうか。


アンコールは天使の死。


およそ、こんなのもう聞けないだろうというような攻めのプログラムに酔いしれる一日。

二人の音の質が全然違っていて(ピアノの差もあるのだろうけど)、一人は鋭く、低音でゾクっとさせるような力強い切れ味のよい日本刀みたいな音楽を、もう一人は、優しく母性と愛にあふれた丁寧な音を、と一見かみ合わなそうな二人の音が見事にマッチしていて、らいひのピアノフェイズの時は比較的同質だった二人の音が、ソロを挟んでもっと離れて行きながらも、奇妙なバランスでマッチし、ランダムバードとアンコールの天使の死で絶妙な塩梅に。


新しい音楽との出会いが沢山あって、興奮してなかなか眠れなかった。
ピアノと比べるとずっとギターにゾッコンだった自分としては、あぁなんと素敵な愛人を見つけてしまったことか。

自分で音楽の壁を作ることなく、新しい音楽に積極的に出向いていこうと感じさせてくれる日だった。
是非、コンサートがあれば足を運んでみてくださいな。

http://ameblo.jp/arasakinarumi-piano/entry-11212036831.html





2012年5月17日木曜日

そこはパリだった

突如前のボスと先輩に、今パリにいるから!という召集がかかり、神楽坂のオサレなお店に及ばれしてきた。

神楽坂のお店といえば基本的に自分では入れないお店ばかりなので、いつも遠巻きに路地を散歩だけして、いつか!と思っていたのだが、大学7年目にしてついに足を踏み入れることに。

お店のフランス人はもうみんな日本語がぺらっぺらだったんだけども、先輩に言われて注文をフランス語で取った後から、フランス人の対応がフランス風に。

いろんな事は日本語でいうんだけど、お勧めのワインは?っていったら

これ!と店で一番高い5ケタのワインを指差すわ、なにも開けてないボトルをいきなりだして、はいよっとかいうわ、お会計でこれはチップ代金ね!というわ、まぁなんともフランスらしい、あのどうでもいいウソを言ってくる感じに対応が変貌した。

会話は途中から日本語だったけど、明らかに接客はフランスのそれだった。

この人間臭い(うさんくさくもある)感じが、やはり惹かれるところなのだ。

大層おいしいワインとお肉とチーズを食し、そのうち自分も後輩を連れてこれるようになれば、とか思いながら神楽坂を後にする。

しかし、2年ぶりくらいに神楽坂にきたが、なんとまぁ魅力的な街なことよ。

地上に出た瞬間のあの明りと街路で既に再度惹き込まれている自分がいた。

また、遊びに来よう。 回遊研究しなくては。

2012年5月15日火曜日

地球が何回回った時

はい、それいつ言ったのー?
証拠はー?何時何分何曜日?地球が何回回った時?

という意味がわからない無茶な難癖をつけて、相手の言ったことを否定するという理不尽極まりない遊び? が子供のころ流行ったのをふと思い出した。

ので、友達に聞いたら隣の隣の県の友達も知っていた。

ありゃ、なんだったんだろうかとふと思う。

そういや、
お前、ほんとにそれ言えんのかー? 命かけられんの?

とか

人の言った事に被せて ハイ、ブー、ハイ、ブーというもう鬱陶しさの極みみたいなのもあった気がする。

そもそもなんでこれ系のどう考えても理不尽としか思えないセリフが流行ったのかもよくわからないのだが、

今考えると子供ってのは、他人に対して突然自分のルールを貸すのがなんて上手いのだろうとか感心してしまった。
外で遊んでる時だって、二人で話しながら突然ルールが次々と出来上がって相手を巻き込んでいくとかよくあった。

となると、子供のころはあんなにルール作りのプロであり、そのルールを簡単に覆す外交術を持っていたのに、どうしてオトナの世界になると海の向こうのやからどもにルールを作られ、それを簡単には覆せず、土台に乗ってから適応策を探りだすのが上手い人達になってしまうのか。

本来の日本の子供たち(世界中もそうなのかもしれんけど)が成長すると、 ルール作りが上手い西側の海の向こうのやからと、ルールを転覆させる暴走車の東の覇者みたいなのが減っちゃうのかなとか思っちゃうわけですよ。

今、これを書いた瞬間が1時21分であっても、それが何回地球が回った時かは、今までもこれからも答えられないままなのです。

地元といふもの

あぁ、いつの間にか2カ月も経っていたのか。
ブログ読んでいますという声で、ほっぱらかしにしていた事実にしていた蓋がぱかっと開いたので何を書こうか少し迷ったのち、ふっと出てきたものでそのまま書き進めることに決めた。

別に自分は流浪人でもないし、帰国子女でもなく、長く川崎に住み続けているのだけど、あまり地元という感覚がない。

先日何をとちくるったか、ふとした折に家から二子玉川まで歩いてみようと思い立って散歩に出た。
さらに何を思ったかせっかくなので今まで歩いたみちではなく回り道をしながら行こうと、最短距離である多摩川を下るだけ、というルートは外してあえて街中を通りながら二子玉川を目指す。

10分も歩けばそこはもう自分が知る町ではなかった。こんなところにこんな小さな商店街があるのか、とかこんなところに工業高校があったのか、なんて小さな発見が次々出てくる。途中疲れて脱線をやめて、川沿いをのんびり下りながら二子玉川までいったのだが、帰り道も同じように途中まであえて脱線をすれば、中小企業や製造業、生コン工場がひしめきあう地区に出会う。生コン工場は大きいのでいくつか知っていたけれど、ここまで小さな会社が沢山ある地区があるなんて、なんてやっぱり知る由もなかった。もはや隣の隣町なので、しらなくて当然と言ったらそうなのかもしれないけれど。

が、どのみち自分は地元を知らない。

小学校を過ごした町と今住んでいる町は違うし、中高を私立で過ごし、大学も東京の方にいってしまったので、地元の飲み屋で飲んだことが実はほとんどない。

駅のすぐ近くに結構流行っている感じの和食系居酒屋があるのだが、そこだってもう7年間毎日目の前を通り過ぎているのに一度だって入ったことがない。もちろん、酒が飲める年齢になる前に引っ越してしまったこと、両親が飲めないので居酒屋に行くことがないっていうのはもちろんあるんだけども。

地元の人、なら地元でおいしい店も、地元のおいしい居酒屋もそりゃしってるだろーよ、とか思いながら10年近くすんでいる今の地より、自分が知ってるのは江古田だったり、本郷だったり、下北だったり渋谷だったりするわけだ。それこそ実家周辺よりパリのほうが圧倒的に勧められる場所が多い。
結局自分が学生として活動している場所の方が極めて印象深い。

そーなると俺が住んでいる場所はここだけど、自分が知ってる場所は極めて少ない。

となると、地元は川崎で、なんていうけども、「おいお前、地元とはそれなんぞや」、みたいな気持ちにならないでもない。

この地の歴史も知らなければ、誰が住んでいるかもよくわからない。

コミュニティがほとんど(自分には)ないこの場所は 地元 となんだろうか。


演習課題でいつか描いた、自分の家の周りを表現する という課題で、僕は自分の風景だと思える場所というテーマで、自らの風景だと実感できる場所と知らない場所でグラデーションをつけて平面図を描いた。あれから2年して、自分の地図に今はたしてどれだけ上書きして濃い色をつけられるのか、と思ってふと振り返って壁を見たが、なかなかうまくは行かないらしい。

5年後、また地図を描いたら今度はどうなっているのだろうか。外から見て、もう少し知ることができるようになるんだろうか。

その時、この場所は自分の地元になるのだろーか。

もやもや。


2012年3月11日日曜日

ヴェネチアビエンナーレと現代美術の苦悩

先日帰国してさっき机の資料を整理しようとして取りだした文化資源学の中でヴェネチアビエンナーレの企画責任者の笠原美智子さん(当時東京都写真美術館事業企画課長)がでてきて、おもしろかったので一部ここに記載。

ヴェネチアビエンナーレヴェネチアビエンナーレは、自分は行ったことないんだけど現代アートの祭典。

で、公園内に各国が展示館を半永久的に持ち、2年に一度行われる世界最大規模・歴史的(1895年から)の祭典なわけだが、日本館もそこに存在している。
しかし、この日本館、1954年に現在のヴェネチアビエンナーレ日本館の建設に際して外務省に55年度予算として建設費千数百万円を要求したが、最終的にこの要求は除去され、9月に三百万円の資金のみが提供。結局そんなのでは建設できるわけもなく、当時ブリヂストン会長が建築費を負担することでやっと日本館が建てられたそうな。現代アートに対する厳しさが見て取れる。

展覧会にしても、2006年度においての予算は 国際交流基金の3000万と協賛金で集めた710万。
これで 下見の旅費、輸送費、設営展示費、広報、図録作成、パンフレット、パーティ資金、光熱費、監視など全てを行わないといけないらしい。このため、 印刷物は船便で事前に送り、パーティのお酒は提供をしてもらうことでなんとかまかなったとか。
絵画作品に保険をかけるとなるとまたそれもとんでもなくお金がかかるはず。3000万というのは相当厳しいのだろう。
実際にコラムでは欧米諸国は最低3-10倍は予算を組んでいるだろうとのこと。

自分がいたフランスは毎年文化予算に国家予算の1%を捻出し続けているし、ポンピドゥーという立派な近代美術館も用意されている。おまけに都市開発の際もアートの目線は必ず用意されているらしく、かのラデファンスができる時(60年代)でも広場に置く現代アート作品としてフランスで活躍するフランス人および外国人の中で幾人かにアートを依頼した。作品群はデファンスに行けば一目瞭然。

現代でもパリではLa nuit blancheという10月1日の夜は現代アートが街中の到る所で展示される。当日はものすごい人出で、アーティストにとっては自分の作品をアピールする凄いチャンスになるだろう。この日はメトロもずっと動いているし、アーティストさんと話したところ、自分で設営と撤収を行わないといけない代わりにお金は特にかからないっぽかった。出資提供はパリ市。

現代アートにもお金を費やし、将来歴史的価値をもつであろうアート作品の保持及び、アーティストの養成できる環境を作る欧米諸国。フランスは、特に印象派の絵の海外流出を悔やんでいるらしく、その二の舞は踏まない!との決意をしているとか。

同じく浮世絵が流出してしまっている日本は果たしてどうなのかっていうと、平成館の特別展とかみてても 以下に苦しいながら補助金と入場料収入でなんとかやるかみたいな苦悩が表れているし、現代アートに特別フォローがいっているわけではないんだろう。実際、王族にフォローしてもらって中東で大々的に展示をしている村上隆とかを見ていると、このコラムだけでなく差は歴然なんだろうなぁと思う。

どこかで果たして転換点はくるのだろうか。

    2012年2月23日木曜日

    おるせー。

    もうすぐパリを去るので、やっぱり好きなオルセーには行かねば行かぬと改装後2度目のオルセーへ行ってきた。
    3カ月ぶりに行っただけなのに一回入口右手の作品は大分内容が変わっていて、本当にこれは何度も来ているあのオルセーなのだろうか?と思えるくらい新鮮だった。”夜”のテーマの企画部屋とかこの人がこんな絵を描くのか!とかそんなのが沢山あって面白い。

    そして、5階にある印象派コーナーはやっぱり驚異的と言うほかなかった。あれが当たり前のようにふらっと美術館入って無料で見られるってのはもうそれだけでパリにいるものすごい恩恵だと思う。
    パリにいる学生だから得られたこの権利ももう無くなってしまうかと思うととても悲しい。

    この一年半のうち、オルセーでの授業やふらふら遊びに行くのを通して、これまで余りよくわかっていなかったドガの凄さを思い知ったり、印象派やマネについての新たな見方も色々味わえた。(それだけに今日ドガのパステル絵のコーナーが見れなかったのはとても残念)。


    それだけでなく、オルセーという美術館の歴史とそのあり方というのがもうそれだけでカッコ良くて、PO(パリ・オルレアン鉄道)の彫刻を見ると、当時のパリの鉄道がここにまで来ていたのかとついつい感慨に浸るようになった。正面だけでなく、側面を見るようになったのもこちらに来てから初めてのことだった。

    初めて17歳でパリに来た自分はまだ美術作品にも全く興味が無くて、それこそとりあえず美術館は無料だし観光で覗くかという程度だったのだけれど、モネのルーアン大聖堂を見て、サンラザール駅を見てから、サンラザール駅を通ってルーアンに行って現物のルーアン大聖堂を見たあの時の感動から絵画作品って凄いんだなぁとよくわからないなりに感じるようになってきたのでオルセー美術館には色々と思い出が詰まっている。

    そのうちまたあの大時計をのんびり見ながら19世紀の世界に溺れてみたい、と思わされた。

    そんな思い出深いオルセーで、何故かボナールの不敵な猫の絵ハガキ買ってしまった。名作ぞろいのオルセーの数あるポストカードの中でなんでこれを選んだのかはわからないが、好きなのよね、この猫。http://bit.ly/x9AAyK

    2012年1月29日日曜日

    パリの公園、日本の公園

    パリの公園といって思い浮かぶもの・・

    リュクサンブール、トゥイルリー(ルーブルの前の奴)、ラヴィレット、モンスリ、モンソー、ビュットショーモン etc

    フランス人(いや、ラテン人?)は太陽の下にいるのが大好きなので、春や夏になれば大勢の人が公園へピクニックにでかけたり、散歩したりする。冬場でもオープンカフェが人気なのは、気候と気質によるものではないかと思う。日本にまんま適用するのはつらい。

    とはいえ、こうしたフランスの公園は24時間空いているものがすごい少ない。

    多くの公園は綺麗だけど巨大な鉄柵がついていて、夜には締め出されてしまう。

    リュクサンブール公園なんて、けたたましい笛の音で終わりを告げられるそうだ(追い出されたことはないのでよく知らない)。

    フランスの公園は大きく分けて、オースマン時代に新しく整備されるようになったものと王宮の庭園を一般に開放したもの(リュクサンブールやトゥイルリーなど)の2つがある。
    モンスリ、モンソー、ビュットショーモンはオースマン時代に端を発する。ブーローニュ&ヴァンセンヌの森も荒れていた状態だったのが、この時代に再整備された。シャンゼリーゼも同様である。


    イギリスの公園に感銘を受けていたオースマンは

    ナポレオン三世に向けて

    De ne manquer aucune occasion de ménager, dans tous les arrondissements de Paris, l'emplacement du plus grand nombre possible de squares, afin de pouvoir offrir avec largesse chez nous, comme on le faisait à Londres, des lieux de délasssement et de récréation à toutes les familles, à tous les enfants, riches ou pauvres

    と伝えている。
    ざっくり訳すなら、ロンドンの公園がそうであるように、憩いの場を家族、子供、貧困問わず全ての人に提供するために、この期を活かして出来る限りの緑をパリのすべての区域に作るべき、といった事を伝えている。

    そのようなアイデアがあったにも関わらず、巨大な鉄柵があり、門は夜になると固く閉ざされ基本的には入ることは許されない。それ以前の公園が、非常に限られた貴族にしか解放されていなかったので、それを一般市民にも開放するという思いがあったのに、どうして柵が無いといけなかったのか。治安のことは勿論あるのだろうが、ちょっと不思議なものである。明りの関係とかもあったのだろうか。
    オースマンの時から150年は経っているのにそれでも柵は取り払われない。
    パリジャンはこれについてどう思ってるんだろうか?

    そう感じてしまうのは、日本の公園に慣れているからなのかもしれない。
    有料の公園や代々木公園などを覗けば24時間空いている場所も多い。上野公園など良い例であるし、小さな公園なんて殆ど柵など存在していない。

    日本で最初の近代的公園である日比谷公園は門はあるものの、大半の柵は簡単に乗り越えられる非常に形式上の柵である。(初期から柵があの形状だったかについてはちょいちょい論文を読んでみたが記載されていなかったし、図面からではよくわからなかった)
    最初の公園が柵がないというところから日本の公園の多くは柵がないのだろうか。その最初の公園に柵がないのはなぜか?

    自分の記憶だと、日比谷公園は本多静六がNYのセントラルパークを模倣したと調べたはずなのだが、どうも今検索しているとドイツのコーニッツの公園を模倣したという言及が多い。ドイツの公園はよくわかっていないので、一体なににより公園がこのようになったのかはよくわからないけど、こんな所に国の差が出てくるのは非常に面白い。

    治安、都市の発展の歴史、災害対策などが恐らく原因なんだろうと推測するけど、まだ詳しいことは自分にはよくわからない。
    城壁が非常に重要な位置を占めていたフランスでは囲いを持つのが当たり前だった一方で、日本の城下町のようにきちっと街を閉ざさないという意識が公園の設計にもしみだしてきたのだろうか。

    さらに言えば、公共空間としては素敵な一方で、夜閉ざされてしまうパリの公園は、公園としては普通でも24時間空いている日本のそれより優れているのだろうか?
    公園は公共のものであり、いつでもだれでも皆が過ごしやすいように使えるべき、だなんてなんとなく思っていたけど、夜は固くその公共性を閉ざしてしまうパリの美しい公園を見ているとパブリックとは何ぞや、と考えさせられるのだ。

    2012年1月18日水曜日

    エッフェル塔

    たまたま図書館でエッフェル塔の本を見つけたのでパラパラと読んでいた。

    エッフェル塔はいつも下から眺めるばかりで、先月ついにきちっと登ったのだけど、その際にあの巨大な塔が僅か2年半(29か月)ばかりで完成したことに衝撃を受け、構造デザインのカッコよさに改めて感服したばかり。

    かのモーパッサンがエッフェル塔のレストランで食事をするのが好きだ。ここならエッフェル塔を見ないですむから、と言ったのは有名だが、エッフェル塔はなかなかどーしてカッコイイと思う。当時の批判の一部はあまりに技術偏重だったから、というのもあるらしい。建築家のデザインや装飾をくわえて今の形になったらしいが、元々形状は水平方向からの風の応力にどうこたえるか、というところから基本的な構造が決定された模様。

    詳細図面は3600枚に及ぶのだとか。

    そんなエッフェルがアーティスト達連合から出された非難に対して答えた文がとてもカッコ良かったので記録のためにここに記載。

    "Parce que nous sommes les ingénieurs, croit-on donc que la beauté ne nous préoccupe pas dans nos constructions et qu'en même temps que nous faisons solide et durable, nous ne nous efforçons pas de faire élégant? Est-ce que les variables fonctions de la force ne sont pas toujours conformes aux conditions secrètes de l'harmonie?"
    我々が技師(エンジニア)であり、我々の建築が美しさと無縁であると思い、我々が丈夫で長持ちするものを建てると同時にエレガントなものを建てようと願っていることを信じないというのか?力学の持つ必然性(変数関数)は常にハーモニーを奏でる秘薬ではなかったか?

    とのこと。構造デザインここに極めりって感じ。

    とはいえ、エッフェルさんが元々化学専攻であり、かつエッフェル塔のデザインは彼の会社の部下2人が行ったことはここではあまり語らないことにしておく。

    アメリカの自由の女神の鉄骨構造や、ガラピ橋を作り、エッフェル塔が20年契約の後に壊されないよう空気力学の研究をしたり、ラジオ(無線)の研究(ラジオ電波基地になってエッフェル塔は解体を免れた)をした彼はやはりすごいと思うから。

    2012年1月2日月曜日

    謹賀新年

    新年明けましておめでとうございます。

    今年は、生まれて初めて一年まるまる海外で過ごすという自分にとってはちょっと不思議な年だったけど充実していてとても楽しい年でした。

    こっちで一年を乗り切ったパリの同志達、わざわざ遠くパリまで遊びに来てくれた数多くの友達の皆には特に感謝しています。さらには日本にいる多く の友達にも、帰国すればまた会えるという安心感があったおかげで一年間全く孤独に悩まされることも、ホームシックになることもなくこっちの生活に集中する ことができました。

    本当にありがとうございます。

    幸いにも今のところは、留学がもたらすプラスの経験の方が、日本にいたら得られるであろう経験よりも大きなものになっていると感じられているので、このまま残りの生活も邁進していこうと思っています。

    特に、未曾有の震災を全く体験しないまま、こっちで多少は客観的にならざるを得ない状態で2011年を過ごしたことは個人的体験としても、将来の 専門としても、良くも悪くも自分には大きく影響してきそうですが、何かしらの形でこの経験をうまく日本に還元できればとは思っています。

    この一年数カ月のフランス滞在のうちにすっかりこっちにも愛着が湧いてしまい正直今はまだ帰りたくないという思いばかりなのですが、もう2カ月もしたら日本に戻ります。

    いい加減長くやってきた学生生活にもピリオドを打たないといけない。
    日本に戻ったら今度は日本組の皆と色々な話をできるのを楽しみにしています。
    その際にお前、パリで一体何してたんだ?と言われないように残りもう少し頑張ろうと思うので今年もどうぞよろしく。

    パリに遊びに来る際はまた連絡くださいな。

    賀正