2011年4月28日木曜日

パリを考える3-パリとメトロポリタン1-

パリで最近動いている大統領主導の一大プロジェクトがある。

その名もGrand Paris。

文字通りパリを大きくしようというものだ。
けれども、パリという大きさはかつての城壁でくっきり区切られているので、パリの行政区域が直接大きくなるわけではない。
ただ、周縁部に無人運転のメトロを通して、パリから衛星都市のように結ばれている各地域を結び、クラスター(産業重点地区みたいなもん)を結び、パリを世界レベルでたちうちできるメトロポリタンにしようという計画である。

その目的はNY、TOKYO、LONDONに匹敵するメトロポリタンになり、経済発展をすること。

その大きな目玉の一つが上に述べた無人運転のメトロである。国家主導で行われるGrand Huitに加えて、パリ市が主導のarc expressの2つが出来る予定。
さらにはRATPというパリ都市交通局による既存メトロの延伸、トラムの延伸、4本のトラムの新設などがあげられる。下の図に書かれている殆どが、パリ周縁部の交通計画の一覧である。


点線部がgrand huitのラインで、右端にあるNoisy-champsはまさに僕が今住んでいるところ、そして我々のENPCが位置する所である。
ここは将来的にクラスターデカルトとして、学術都市(よーするに筑波みたいんところ)として、東の中心地区の一つになろうとしているのだ。将来的には今のRER Aに加えて、このgrand huit、そしてトラムが延伸されることになっているらしい。


Grand Parisについては自分もまだ消化しきれていない部分も多いからまた改めて何度か考えてみたい。そもそも、まだ公開議論がつい先日終わったばっか(だったかな?)であって、このラインも確定していない。
以下は僕の主観的意見が多分に盛り込まれている。この先変わることは大きくあると思うけど、今の自分の立ち位置として記録しておくのは悪くないと思った。

メトロポリタン最大の都市としてTOKYOは必ず出てくる大先輩である。その、メトロポリタンの大先輩の一住人として言わせてもらうと、恐らくこのグランパリは成功しない。
一つは武蔵野線レベルの大きさの鉄道を無人のメトロで運転するのはあまりに無茶があること。話題にはなっても赤字から抜け出せないし、すでに直線状で結ばれているRERのクオリティが余りに低いので恐らく目論見はうまくいかないんだろうと思っている。風に弱い武蔵野線の延長は107kmなのに、このgrand huitは総延長160kmになるはず。それを地下で建設するなんて信じられないくらいコストがかかる。
もうひとつ、このプロジェクトはフランス伝統の中央集権主義から少しでも環状線をつないで横の連携をつなごう!そして、その影響力でパリと周縁部の連携をさらに深め、パリを大きくしよう!というものだが、まず、通る駅達は全てパリの外の衛星都市。山手線のように周回する駅が魅力的ではない。普通にこの周回鉄道を通るならパリから放射状に延びる既存のRERを使って移動した方が圧倒的に早いだろう。環状線として新興都市同士をつなぐメリットがどうも見えてこないのだ。結局パリを通過することになるのではないかと思ってしまう。
そして、パリの周りのコミュニティ同士の意識も、この周回鉄道で変わるとは思えない。まず、パリが圧倒的すぎるので、パリと郊外A、B、Cみたいな扱いであるのが、郊外A,B、Cをワッカ通したからこれでパリと一体になって…というわけでもない。今回のプロジェクトではパリと周辺コミュニティの力の関係性も変わらないので、周りのコミュニティ同士がパリジャンとしての意識を持つことは難しいだろう。
ちょうどまさしく、グランパリのアイデンティティとは何かと言うプレゼンをすることもあって最近グループで議論するのだが、その話の中で、パリはフランスだよ。
パリはフランスであり、フランスはパリである。
日本でこんなこと聞いたことないが、それが言い切れるくらいフランスと言う国は中央集権的な作りをしている。お隣のドイツはそのま逆なので、友達はほんとフランスは…と良く言っている。

パリとパリ以外の差は圧倒的である。交通の便も圧倒的に違う。パリの中の交通網は素晴らしい。正直東京よりも凄いと思う(汚いけどね)。バスとメトロとヴェリブと組み合わせたら殆ど歩かないでパリじゅうを横断できる。しかし、一歩パリをでると途端に不便になる。そう、僕の家のように…orz

交通も全てパリを起点とする。全ての道はパリに通ずといっても過言でないくらい。

余談だが、昔リヨンからラロッシェルに戻ろうとした時、直線で行けるラインがあれば4時間くらいで行けそうなものなのに、TGVが全部パリ起点なので、一見遠回りなパリ経由の方が直線距離が遥かに短いルートよりも3時間近く早くつくことをみて驚愕した覚えがある。

まぁ、とはいえ、グランパリは現在動いている都市計画の中ではとても興味深いし、何より自分がこうしてその変化の中に”生”でいられる非常に貴重な体験なので目が離せない。
目が離せないもう一つの理由は東京とパリの関係性である。

圧倒的に集権的な国、メトロポリタンの先輩の日本もまさにその例の一つだろう。
メトロポリタン東京は、僕の理解が正しければ、望んでこうした超巨大都市になったわけではない。
日本の国土の開発の方針を決める、”全総”という国交省が数年に一度まとめる報告書があるのだが、1~4次で常々謳われてきたのが”国土の均衡ある発展”。巨大都市、ひいては東京への一極集中を避けるものである。
それでも東京は成長した。今では東京首都圏の人口は3400万にのぼると言う。 ちなみに、ドイツでは制度上、十万を超えれば大都市だそうだ。

常に東京の一極集中をなんとか抑えようとし、そして、度々失敗してきた。
東京メトロポリタンは、一極集中を避けようとしても避けられなかった。
東京は東京の拡大を防ごうとした。かつて、2度にわたるグリーンベルト(緑のえりあによって物理的に都市の拡大を防ぐ。ロンドンや韓国が有名)を試みたが、いずれも計画に失敗している。
世田谷区の砧公園は確かその名残だった気がする。
ある意味、封じ込めに失敗してしまって、今の世界最大のメトロポリタンが出来てしまったのだ。東京はある意味誇りだが、ある意味失敗の賜物なのかもしれない。
そして、東京と言われて思い浮かべるのは何か?東京のアイデンティティというのは僕らの分野では度々問われる質問である。

一方のパリは中央集権国家ではあるが、パリという都市を明確に区別できる。住居問題などはあるが、パリのスプロール化が問題にはなっていないはず。城郭都市なのでグリーンベルトを作らなくてもよかった。
中心部は大胆な都市計画として歴史に名を刻んだオースマンの都市計画を経験し、歴史的建造物も残り、パリと言えばセーヌ川、エッフェル塔、凱旋門、カフェ。アイデンティティに溢れている。

だから、東京が得たくても得られなかったものをパリは嫌と言うほど持っている。だから、パリと言う存在は東京の憧れだったのではないかと思う。

その、憧れの存在が、今まさに東京と言うメトロポリタンに追いつこうとしている。自分の憧れが今度は自分を目指しだしたのだ。それは、困惑するに違いない。

パリは今変わろうとしている。みんなはこれをどう思うのだろうか。

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2011年4月26日火曜日

はじめの一歩

浪人時代につけていたブログが、ちょっと懐かしかったので再掲。05年なのでもう6年前か。
そこそこ、昔のことは覚えている方だとは思うのだけど、当然ながら05年の自分の方が04年のことはしっかりと記憶に刻んでいるらしい。
まさか、こうしてフランスで生活してるとは当時の自分は思いもしまい。
スマフォなんて当然ない。当時の連絡は全部公衆電話だった。まだカフェから電話かけてたりしてたそんな時代。
初めてパリに訪れた、フランス一日目。この日の経験でインタークラス(東大2外既習クラス)に入りたいと強く思った日。ここからの2カ月の経験は結局今の自分にもつながってるわけだ。
 

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~さかのぼること1ヶ月前、2004年3月22日。~
シャルルドゴール空港に来た俺はてんぱりまくりだった。わが校からの交換留学(フランス)はパリ、リヨン、ラロッシェルとあってパリはシャルル ドゴール、リヨンはシャルルドゴールから乗換えで直接リヨンに行くのだけどラロッシェルへは一旦パリに止まってから翌日TGVで向かうことになっているの だ。そんなわけでパリに一泊するためにホテルに向かわないといけないのだけど地理もまったくわからない。で、例年先輩が空港に迎えに来てくれる。
 
 
で、まず当時交換留学生でパリに留学中で俺を空港で迎えてくれるはずのS先輩(東大生)
 
…いないし!!!えぇぇぇ。あせる俺。 
 
この時点でかなり不安になる。そうだ!携帯に電話かければ…
公衆電話のかけ方がわからん…クレジットカードさすの?え?わかんねー?汗 
3月ってのに汗だくになる俺。
フランスはテレカみたいなのじゃないと電話がかけられないんですよ。もしくは喫茶店で電話借りるか。硬貨はこそ泥見たいのが電話機破壊してもってっちゃうので駄目だそうな。
 
この時はそんなこと知らないし、あせりまくり。
 
結局先輩には無事に会え、ホテルに荷物を預けた後、ちょうど旅行でパリに来ていたT先輩(東大生)、元東大生で当時ケンブリッジ生のSさん、その妹さん、とそうそうたるメンバーに囲まれて食事しました。
俺以外の4人は全員知り合いで、俺は全員初対面だった。
まぁ思えばこの人たちのお陰で志望校をきちんと考えるまた一つの大きなきっかけになったとおもってるのですが。まぁ今日はそういう話ではないので。
とりあえず異国で友達同士であって食事するなんてすごい国際派な人達だなと思ったものです。
其のときもう一つ驚いたのがSさんと妹さん。帰国子女のせいか二人の会話が英語。
バイリンガルとかいるしW先輩という以前留学しようとしたときにお世話になった先輩の話でも日本語喋れない日本人とかの話は伺っていたのですが実際に見てかなり驚きました。
日本語と英語どっちがしゃべりやすいのか?ときくと英語のほうが楽かなぁとか…
こんな感じで色々話を聞いたりなんだりでホテルに戻ったのは夜の11時。
 
ゴチになりました。
 
飛行機内は俺の通路側だけけばい日本人のおばさんだったのでフランス語を話す機会もなく、、、ちゃんと喋ったフランス語は
 
明日チェックアウト後にもあずけておけますか?
 
という簡単な一言。それでも事前に辞書であってるかチェックしてブツブツ言いながらフロントまで歩いた記憶が残ってる。
 
↓泊まったホテルからの景色。モンパルナス駅の目の前
hhy 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(回想)当時泊ったホテルは今でも忘れもしない、Timhotelでした。モンパルナスの駅からすぐだったけど、今でもまだあるのかなぁ。一泊75euroしたんだよな、当時。2つ星なのにさー。
 
翌日はT先輩と一緒に半日観光。オルセー美術館等をまわってその後ラロッシェルへ。

2011年4月19日火曜日

パリを考える2-鉄道からみたオルセー美術館-

現在のパリには6つの主要駅があることは前回ちょこっと書いた。
最初の駅サンラザールのほか、北駅、東駅、リヨン駅、オーステリッツ駅、モンパルナス駅がある。

こいつらが、恐らく(だが、かなりの確率で)当時の12区の周縁部に、煤煙などを避けるようにして建設されたことは書いた。
恐らく、立地に関してはロンドンのそれが参考にされているんだろうと思うけど、ロンドンの駅の立地が当時の行政区とどう関連していたかは僕にはよくわからない(誰か知ってる人がいたら教えてください)。

1837年のサンラザール駅を初めとして、次々と6つの駅ができた。そして、その駅を北部鉄道、オルレアン鉄道、東部鉄道、 西部鉄道、地中海鉄道etcといった鉄道私鉄会社がそれぞれの駅を使って電車を運行していた。西部鉄道などはいくつかの合併によって誕生したものらしいが。

まぁようするに、こいつらはみな各鉄道路線の始発駅なわけだ。元々が別の会社によって運営されていた駅だからこそ、駅舎としても通過駅型でなく、終着駅タイプの駅舎になっているんだろう。東横線の渋谷駅や小田急の新宿駅みたいなもんだ。
それが、1930年になって、各路線の赤字から、国が買収し、国鉄となった。それが現在のSNCF。
現在でもフランスの長距離列車は”国”鉄である。日本とはここは違う。日本は国鉄を民営化したので全く逆の道をいってるわけだ。

今回はそのうちのオルレアン鉄道にちょっと話を絞る。

オルレアン鉄道の主要駅は今は影をひそめがちなオーステリッツ駅である(現在は夜行列車や一部近郊線に使われている)。オルレアン鉄道はその名の通り、オルレアンを通りながら、ボルドーなどへ向かう鉄道だった。


オルレアン鉄道が出来たのが確か1850年代。
そのうち、オーステリッツ駅が中心部から若干離れていたこと、同じくオルレアン鉄道が所有していた郊外線のソー線の駅が今のRER B線のDenfert-Rochereauから同じくB線のリュクサンブール駅に移り、より便利になったことに加えて万博が1900年に開催されることと合わせて、オルレアン線本線延伸が決まった。
そして作られることになったのがオルセー駅、今のオルセー美術館である。
ルーブルはかつての王宮の一つであり、オルセーは駅だった。カッコ良いリノベーションだと思う。

この際、パリの中心部に煙を持ち込まないように、ということでオーステリッツとオルセーの間の線路は全て地下化したうえ、電気軌道で走ることとなった。オルセーは、その結果駅舎に煙が入らないことを前提として設計された駅舎であるらしい。 恐らく、ホームが全部屋根で覆われていたのだろうと思う。他の駅は途中から屋根がないのはTGVに乗ったりしたことがある人ならわかるのではないだろうか。

1900年に開通したオルセー駅は、しばらくの間オーステリッツ駅に代わってオルレアン線のターミナル駅として活躍した。
スペインへの国際列車も発車していたらしい。
ここから、40年近く、パリのど真ん中を長距離鉄道が走っていたことになるのだ。

知らなかったのだが、この万博に合わせて実は、パリ左岸でもうちょっと西のアンヴァリッド(今はナポレオンの墓がある)という駅やchamp de marsといった駅も開通していたそうだ。それに加えて、luxembourgやdenfert-rochreauなども駅が通っていた。
そう、パリの地上部分にはあまり鉄道が走っていないように見えて、一時はかなりの鉄道がパリの中心部までやってきていたのだ。
僕の中ではパリの駅はあくまで6つの中心からはちょっと離れた駅達であって、パリは中心部に駅が入ってくるのをかたくなに拒んでいると思っていたが、実際はそうでなかったようだ。
この鉄道路線の名残は実は今でも見ることができる。
アンヴァリッド駅やオルセー駅、オーステリッツ駅は地下で結ばれて現在のRER C線になっているし、ソー線は今のRER B線の南部につながっているのだ。100年前の鉄道路線はこうやって今も生き続けている。あまり書いていると長くなるのではしょるが、RERの路線たちは1800年代後半~1900年頃に出来た鉄道路線を利用しつつ新規路線を追加して1960年代に復活した。

しかし、1930年代後半になって車輛が長くなったことを受けてホームが足りなくなったこともあり駅舎としての短い役目を終えた。

それが、86年に美術館として改装されて今の姿があるのだ。


ルーブルを見てから、オルセーに行く時に、セーヌ左岸沿いを歩いているとオルセー美術館の側面を見ることができる。時間がある人はぜひ見てほしい。

そこには、PO(paris-orleans)と駅舎に掘られたマークと、かつてオルレアン鉄道が結んでいた駅、ボルドーやオルレアンといった名前が刻まれているのだ。確かにここは駅舎だったことを感じさせる瞬間。自分はこれを見た時ちょっと感動した。

それを感じながら、オルセー美術館の正面に入ってみるとより一層オルセー美術館が素晴らしいモノになるのでないかと思う。チケットを切った後少し階段を下る前に奥を見渡せば、そこに当時はオルレアン鉄道の車両が止まっていたこと、線路が地下を通ってきたから恐らくあの下り階段があるのかもしれないといった思いが湧いてくる。
そして、振り返ってあの大時計を見れば、より一層駅としてのオルセーを感じられるはずだと思う。
駅として流れていた時間を見ながら、ちょうど鉄道が開通した時代からオルセー駅が誕生するくらいまでの当時の作品たちを見るなんて、なんとも粋なことをしてくれるもんだなと思う。


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2011年4月14日木曜日

江戸にミスチルはいたのか?

そういや、日本で所謂アップテンポの音楽が始まったのっていつなんだろう?

その時に使われた楽器はなんなのあk?三味線とかでアップテンポの曲ってあったのか。
いや、アップテンポっていう概念は当時からあったのかもしれないけど、今日で言えるようなアップテンポってどこでできたのか。
江戸時代だったら盆踊りであるようなあのちょっとゆっくりの手拍子とかが当時は割とアップテンポ的なものだったのか?

琴も篳篥もそういうアップテンポの世界を作り出せる楽器じゃないと思うんだよね。
とーぎさんのアルバム聞いてても、そう思うし、”急”って楽章はあるみたいだけど、アップテンポの概念があまりに違う。

つーか、江戸時代のポップミュージックにあたるものってどんなのなんだ?その時の楽器構成って?


いまじゃポップスって当たり前だけど、江戸時代とかって今のB'zやミスチルみたいな存在っていたのかな。

多分、こんなじゃないと思うんだよねぇ。これ、相当無理してる感じだし、そもそも篳篥にしても雅楽の笛系って、音が安定しにくいから最初にちょっと低めの音からスタートして安定させないといけないみたいだから、音階が激しく動くってのは想定されてないはずなんだよな。








誰か、知ってる人がいたら教えてください。

2011年4月12日火曜日

Giverny

サンラザールから電車で45分。
印象派ゆかりの地の一つであるジヴェルニーに行ってきた。

ちょっと前までプレゼンなどで随分精神的にすり減ってたので、少し外に飛び出したかった。
最初は大好きなルーアンに行こうと思ったんだけど、かれこれ3回目になるルーアンより、新しい所に行きたいなぁと思って、ふとジヴェルニーが出てきた。
晩年モネが過ごした家がある場所。スイレンや太鼓橋の絵はここから生まれたそうな。
てわけで、建築の友達と3人で旅立ってきた。
ジヴェルニー事態は、軽井沢と富良野を足して敷地面積を100分の1にしたようなそんな可愛い小さな村。


モネの家とその庭は4-11月くらい、花が咲いてる時期だけあいているんだそうだ。
そこはもうすっかり春だった。いや、5月や6月を思わせるくらい。
あぁ、春だなぁと思わせてくれる綺麗に整えられた庭と、スイレンや太鼓橋が広がるちょっとうっそうとした庭との二つに分かれている。

こちらはかの有名な太鼓橋。 


綺麗な庭で、みんながのんびり楽しそうに話しているのがとても素敵だった。




庭と並んでもう一つ有名なのはモネの家。
ジャポニズムに影響された印象派の巨匠の家には、信じられないくらいの浮世絵が所狭しと展示されていた。写真は禁止されていたけど、正直こんな量・質の浮世絵を見たのは生まれて初めてだった。
北斎、広重、歌川一派、歌麿etc
美人画も風景画も風俗画も。ちょっと保存状態が悪いけど、それでもこんなに一度に見れる場所なんてあるんだろうか?法隆寺宝物館ですらこんなにまとまってはみれないんじゃないか。
一人の家なのに、津和野の北斎美術館並みの作品があるような気がする。
今ではもうなかなか日本には回収できないんだろうなぁ。自分の国の作品なのに、フランスでこんなに大量にお目にかかるなんて、皮肉なもんだよなぁ。しかも、みんなが大好きな印象派こそが、日本がかなぐり捨てようとした日本の絵画に感銘を受けたのが日本ってのがまたなんともシュール。

見所は正直これと、とても小さな印象派美術館しかないのだけど、一日堪能できる素敵な村。
時間ができたらまた来たいなぁと思う。ちょっと小さなお気に入りを見つけた気分。

パリであわただしく美術館見るより、ここで一日のんびり庭見て、絵を見て散歩して、カフェでお茶飲んでって方が良い思い出になるんじゃないかなぁと思う。
電車で45分いくだけで、こんなのどかな風景が広がってるのはフランスだからこそなせる業かもしれないけれど。

日本ほど、小さな季節感を感じとって、というようなものはないけれど、太陽のおかげで日中は半袖でいけるくらいの良い季節になってきました。

パリももうすっかり春です。


2011年4月11日月曜日

Parce que c'est joli.

フランス語ってのは憎らしいが愛くるしい。むかつく点は沢山あるんだがでも憎めない。

一番むかつくのはキーボード配置。これは許せん。
世界中の殆どの国が
qwer 
asdf
のはずなのにフランスだけは
azer
 qsdf
なのだ。何回押し間違えたことか。何度間違えてctrl+ZをCtrl+Wにしてファイル保存せずに閉じちゃったか。
お前ら、独自路線は良いからその配置どうにかしろや!と留学生仲間で一度はする共通ネタだと思う。


我はフランス。独自の道をいくのだよ!というフランス語。
あくまで”フランス語”を貫くことが多い。英語の単語が流行ってもフランス語はストッパーのごとく自分達の言葉をちゃんと使うそんなイメージ。
カタカナという見事な輸入マシーンがいる日本とは大きな違いだ。

そんなフランス語の中で、昔は英語と同じ単語構造だったのに、19世紀かなんかに変化してしまったものがいくつかある。そいつらはsが消えて代わりに帽子をかぶった。
例えば、
forest⇒ forêt
chasteau ⇒château
isle ⇒île
みたいな感じ。
まぁ、その理由は定かじゃないんだけど、まぁ初めて聞いた時はそんなことしなくていいから。ややこしいから!と思ったわけで。

ただ、つい先日別のフラ語の先生が上記の話(この時はもう知ってた)をした後で、
じゃあâgeみたいに元はageで発音も変わってないのに帽子がくっついてる単語はなんででしょう?と問いかけた後、彼は言った。

Parce que c'est joli
と。
日本語で言うなら、”だって、美しいからさ。”

これを聞いて思わずみんな笑ってしまった。

ウソかホントかわからない。でも、ホントな気もする。フランス語だから、全然あり得る。
美しいからさってのが勝手に帽子つける理由だなんて、滅茶苦茶だ。

だけどこういう所、この国の素敵なエスプリだなぁと思う。
憎たらしいけど憎み切れない。愛らしい言語だなぁとすごい感じた瞬間。

 

2011年4月9日土曜日

パリを考える1-パリと境界-

随分とブログを放置してしまった。1とつけたのは続きを書こうと言う自分への戒め。


まだまだ、この街には知らないことがいっぱいある。

それは、さりげなく、いや、別に隠されているわけじゃないのだけど、良く見ないと気付かない。そんな所が沢山ある感じ。

パリをふらふら歩いたりしつつ、今学期は
・フランス人との交換授業でナポレオン3世のパリの歴史についての勉強
・フランス語の授業のテーマがオルセーの作品などを通じて、美術の解説技術を身につけつつ、オースマニアンを読み解く
というちょっとアカデミックなアプローチも踏んでいる。

この勉強を始める前から、パリの境目について興味があった。
パリは城壁都市だ。シテ島という小さな小さな島から始まって、城壁を作っては壊して、作っては壊して、と脱皮を繰り返して大きくなってきた。
最後の脱皮をして、今のパリの大きさが規定された。その城壁は環状高速道路(ペリフェリック=英語で言う所のring)になった。その一つ前の時代、オースマンの時代に最後の脱皮によって城壁は取り壊され、パリは大きくなった。今から150年前のこと。

150年前からパリに組み込まれた場所と、それよりももっと前からパリだった場所はどう違うのか?その境目はどこなのか?
ペリフェリックとその境目は暴力的な高速道路で分断されている。パリとパリの郊外は大きな差がある。パリの郊外に住む者として大いに痛感する。フランスが中央集権国家であり、その象徴であるパリと、郊外とでは世界が違う。
かつてはパリでなく、後にパリになったベルビルやモンマルトルがあることは知っていた。ただ、具体的な境目は良くわかっていなかった。どうやったら綺麗な境目が見つけられるのか?それは歩いていて感じとれるものなのだろうか?だったら一区一区時間ができたらしらみつぶしに歩いてみたい、なんてことを考えていた。

ある日のこと、グーグルマップでパリを眺めていて大通りをみてふと思った。もしかして、13-20区ってその全ての区が新しく追加されたパリなの?と。

個人的にはものすごい発見だった。そうなると、13-20区(直感で思ってたのは12-20区)は内側の区よりも随分大きいのも納得がいく。

よくよく調べてみたら、確かに書いてあった。
1860年にオースマンが新しく13~20区をパリに追加した(恐らくだが、当時の城壁線に比べて細かいずれはある)。



これが判ると色々と新しいことが見えてくる。
例えば駅の立地。
パリの駅は中心にはない。ちょうど山手線の主要駅のように、すこし離れて6つの駅(北、東、サンラザール、リヨン、モンパルナス、オーステリッツ)が行き先別に点在している。
この位置が実に中途半端なのだ。パリの境目にあるならわかるが、そういうわけではない。随分中途半端な位置にあるし、なんでだろう?と疑問に思っていた。

でも、駅が造られた1840-50年代はまだパリは12区までしかなかったのだ。
そして、それを踏まえてみれば、この時代におけるパリの境界線付近に駅は作られているのがよくわかる。北や東、サンラザール、リヨンは内側に、モンパルナスやオーステリッツは城壁のすぐ外側にできていた。どうして一方が内側でもう一方が外側かはよくわからない。ただ、いずれにしてもこの当時のパリとの境目が見えると、駅の立地の理由も大雑把にだが随分すっきりする。
まがりなりにも自分でこの事実を導き出せたことにちょっと感動した。
駅が境目付近にあったのは、当時がそれが蒸気機関車であり、煙がなるべくこないようにするためだろう。今のオルセー美術館がまだ駅だったころ(そう、オルセー美術館は昔は駅だった)、オーステリッツ駅からオルセーまでの間はわざわざ電気軌道にしていたという。となると、やはり中心に駅を設けなかったのは石炭の煙を嫌がったという環境的な問題なんだろうと予想できる。

そして、凱旋門。
こいつも実に納得がいく。
凱旋門は”門”なのだ。パリの今の境目はかつての城壁の名残でporteと名のつく駅が沢山ある。じゃあ、パリの境目で、パリに凱旋してくる時に入場してくるはずの門が、どうしてパリのちょっと内側にあるのか?
それも、区分けを見ると実に綺麗に出てくる。8,16,17のちょうど境目に凱旋門はある。
当時はちゃんと、パリに帰ってくる時に通る門だったのだ。

そう、もう2つパリにあるちょっと目立たない小さな凱旋門(パリには全部で5つの凱旋門がある)、サンマルタンとサンドニ凱旋門も、パリがさらにもっと小さかった時の境界部分にあるのだろう。
そして、ここは3区と10区の境目じゃないか。と、次から次へと広がっていく。

まだ、12区内のことは詳しくわかってないけど、恐らくトーレスしていけば1-6はそのさらに一つ前のパリの区域で、その後7-12区が追加されたんじゃなかろうかと想像する。
ただ、その理論で言うと1区のはずのシテが4区であるのは変。恐らく現在のルーブル美術館が宮殿として王様たちが住んでいた時に再編されたではなかろうか?それならあそこが一区というのも納得がいく。

まぁ、よくよく考えれば、行政区で新旧の土地を分けるってのは実にシンプルなやり方だから、気付いても良かったのだろう。恐らくパリについて良くまとめあげた本には書いてあるのだろう。けれど、どこかで勝手に行政区は近代になって再編されたに違いないと思い込んでいた。

とても小さな発見だったけど、自分にとっては大いなる発見だった。パリの謎が一つ解けた気がしたから。あぁ、都市の歴史論の面白さってのはこういう所に転がっているんだなとなんだかものすごい納得させられた。

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