2011年11月16日水曜日

アンダルシア旅行その②:Sevilla


バスに揺られること4時間。次なる場所はアンダルシアの州都セビーリャ。セビーリャの理髪師などで有名なかの地である。
アラブ支配下時代の街並み構成に、ヨーロッパ式の4,5階建の建物を新たに建てたらしく、入り組んでいる上に外が見えない、でもちょっと魅力的な路地が連なっている。
おかげでホステルにつくまでに随分迷うはめになった。
世界の度肝を抜くような大聖堂を、というコンセプトで作られた大聖堂はあいにくミサで全部は覗くことができなかったが、彩色は地味ながら、天井の彫刻と壮大な空間が割と見事な場所であった。この時はまた午後も来るだろうと思い十分程度讃美歌に耳を傾けつつ後にしてしまい、結局戻ってくることはなかった。もう少し見ておけばよかったかな…残念。

なるほど、州都ともなると小さいながらもトラムが走っているらしい。ボルドーと同じく電線を完全に地中化している模様。
 大聖堂を挟んで向かい側にはアルカサルというアラブ時代の城塞跡が残っている。
かつては城塞だったらしいが、クラックデシュバリエ(シリア)のような、今でも砦の趣を残すというよりは、綺麗な中庭と庭の集合体という感じであった。アラブを旅した身としてはどことなく懐かしい空間達




 中庭にオレンジが植えられているのは地中海に来たことのあかしだろうか。

再び街中に足を踏み入れ、素敵な幕の下をぐるぐる通って行くと、最近できたというキノコのお化けに出会うことになる。



 部屋が同じだったこともあり、この日一緒観光していたカナダ人の友達はweird!と言いながらも写真を取りまくっておりなかなか気に入っている様子。自分は突然幕間から飛び出してきたこの奇妙な物体(オブジェ)を上手く受け入れられないままぼんやり眺めているだけだった。


そんなセビーリャで最も感動したのが少し南部に下った離れにあるスペイン広場。
写真うつりは悪いが(曇っていたし)、これが広場か!とまるでサンピエトロ広場のような広大な空間。かといって、あそこまで大きすぎてという感じもせず、すごい落ち着いた感じ。半円を取り囲む建物もシックだけどすごい丁寧でカッコ良い。

 細かいベンチや壁などもすごいきちんと作られていて、広場と建物の間の小さな運河?も見事に決まっていた。




 夜になっても州都は賑やかで、ライトアップされた路地には人が溢れ、バルに行けば皆でサッカーを見ながらビールを飲むと言う様。
ビールを飲んで、買い物をし、フラメンコを見て宿に戻る。
 丸一日で十分見終わるだろうと思っていたのだが、予想に反して見ごたえが多すぎて、結局路地探検も十分にできないままセビーリャを離れることになってしまった。

路地は諦めても、ここまで来たのにカラトリャーバの橋は諦められない!と思いコルドバ行きの電車に乗る前に橋を目指して歩く。15分と言われていたのに15分経っても見えやしない。
 ようやく橋が見えたころにはすでに30分は歩いていた。
近くで見るとものすごい質量感なのだが、嫌悪感はない。さらには、上に挙げたコンクリートアーチと下流から見ると非常にバランスが良いのだ。すごい遠くから見ていると日が出ていないせいもあって、どっちが手前にあるのかわからないほど。(上流にかかってるのに同じスケール感でみえるってことなので、近くに行くとそれだけでかいってことなんだけど)
丁度橋脚部分が木で隠されて見えないようになっているので一番重苦しく感じさせるであろう部分も見えないようになっていた。



 本当はすぐ真下まで行きたかったのだけど、電車の時間に間に合わなかったので100mくらいまで近づいて引き返す。
 朝焼けの静かな街を練って次なる場所コルドバに向かうのだった。

2011年11月12日土曜日

オルセーの本気

長きにわたったオルセー美術館の工事が終了した。

リニューアルしたオルセーに足を運んだ。祝日だったこともあって混んではいたが、行く価値はある。

オルセー美術館の本気の凄さをまざまざと見せつけられた。

今回の改装でこれまで使えなかった2階右翼部分と5階部分(左翼のみ)が全面解放されて、それまで窮屈な廊下に抑え込まれていた印象派達は5階部分を全て使えるようになった。

新しい印象派のコーナーは壁を濃い紫/黒に近い色に塗り直し、天井部を開けて自然光を取り入れるようになった。これにより、光がよく入るようになり、かつカラフルな印象派の絵が壁との対比で非常に映えるようになった気がする。(2004年に訪れた時はまだ白壁で、印象派の面積も少なかった)

肝心の作品については、疑いようのないクオリティ。

小さな小部屋が連続して6,7個続いているのだが、各部屋にこんな有名な作品が惜しげもなく並べられてるよ…と一つ目の部屋だけで日本なら特別展が開けるような世界が広がっていた。

ドガのバレエ作品を連続で並べてみたり、海辺をモチーフにした作品をぽーんと並べたり。
そもそもマネの名作群をほいほい飾ってみたりとまぁ力を持つものだからできるやりたい放題っぷり。

そうかと思うと壁を一つ使って1,2作品だけを使うという大胆な飾り方をやってのける。
ルノワールのワルツは壁に2枚だけかけられた大胆な構図。しかも次の部屋に行くための仕切りとしておいてあるのでかなり視点が集まる構図になっている。(オルセーは写真禁止なのでぜひ足を運んでください)

キュレーターもここまでできたら楽しいのだろう。カードなんて幾らでもあるんだものね…。逆に日本のキュレーターの苦労は計り知れないのだろうけど。授業でのぽろっと喋る愚痴を聞いていると、三浦先生も作品集めるの本当に大変そうだったみたいだし。

そもそも会場構成(一筆書きで見ようとすると毎回ぐるぐる小部屋回らないといけない)と作品量的に、全ての作品を細かく見てくださいというものではなくて、あなたの気に入った絵を適当に見ながらどんどん進んじゃってください。ちょっと見逃しても良い作品は沢山あるからいいですよ、という作り。好きな時に来て何回も見てくださいという意図が感じられる。

5階の展示だけで正直お腹いっぱいになるクオリティ。あぁ、本気を出したらこんなのできるのね、と以前マネ展で見せつけられた圧倒的力をここでも見せつけられる。

以前は沢山あったマネのツミワラや太鼓橋がないのはどっかに貸し出されてるからかもしれないけど、とりあえず工事前には無かった作品、7年前や4年前に来た時には見たことなかった作品も結構あった。そういえば、シスレーやピサロの作品も減ったような気がしないでもない

ちなみにここまで歩いてまだゴッホやセザンヌ、後期印象派は出てきやしない。

ゴッホはひとつ2階の左翼部分にゴッホのコーナーがおいてあるのだが、ここもまたおしげのない作品の飾り方なうえ、オーヴェールの教会と壁、光の当て方がなんとも見事。オーヴェールの教会の教会とは思えないあの重々しさがいっそう強調される構図になっている。
きっと担当したキュレーターもドヤ顔してるに違いない。
少し部屋が狭いのが残念なところ。人も集まるのでもっと奥行きがあればすごいよかった気がするのだが…

今回のオルセーの改装では各部屋ごとに光量を随分調整しているようで、ゴッホの部屋は天井光を取り入れて明るいのに対し、スーラなどの部屋では採光はせず、少し暗めの中スポットライトを当てて映えさせるという展示の仕方だった。

さらに、新しくジャポニズムのコーナーができていて、そこでは以前国立博物館で特別展をやっていた浮世絵と陶磁器の作品がずらり。一時ヨーロッパにて浮世絵を陶器の模様にすることがはやったらしく、北斎の鳥獣戯画などがかなりモチーフになって皿として展示されているというもの。これ以外にジャポニズムをオルセーで体験できるのはマネの「ゾラの自画像」の背景くらいなので、ちょっと面白い。

既存部分は相変わらずアカデミズムやオリエンタリズムなどの作品が飾られていて、上に比べると大分人も少なくのんびりみれる空間になっていた。5階から回って行くとこのころにはお腹いっぱいになっているので軽くさーっとみて終わってしまうのでまた次回に…

とまぁ、工事期のオルセーは随分窮屈で人も絵も可哀想な感じになっていたけど、全面解放して本気を出したオルセーはかつて僕が行って大好きになった7年前のオルセーよりももっと素敵で意欲的な空間になっていた。

マネやモネは1870年以前と以降で展示階が違っていたりしてちょっと気付きにくいのだ(つかモネの部屋は見逃した…)とか、2階の左翼部分はなんかいまいちぱっとしないだの不満はあるけど、まぁそこは目をつむるとして、個人的には駅としてのオルセーとのあり方、アールヌーヴォーとの見せ方(今はしょぼいモデルルーム見せてるだけみたいになってる)、アカデミズムのアンチテーゼとして生まれた印象派、というのがもっと見えたらもっと面白いんだけどな、とアカデミズム派を三浦先生に教わり、こっちでパリの歴史について学んだ今だと感じるところなのだけれど。

とはいえ、学生は5.5ユーロでこの世界を体験できるというのははやり非常にありがたい。
新しくなったオルセー美術館、パリに来る際は是非とも足を運んでみてください

2011年11月6日日曜日

Parlon d'art①

先学期から続けてParlon d'artというフランス語の授業を選択している(今学期はもぐり)。
一応フランス語の授業なのだけど、フランス語を使って、絵画を説明するテクニックを身につける、というのが授業のテーマ。

先学期は19世紀絵画に見るオースマン時代がテーマ。専門に近かったこともあって、オルセー美術館で絵と歴史を随分と学ばせてもらった。

今学期は科学・技術をテーマにポンピドゥーで授業が行われている。

自分はポンピドゥーの所謂”モダンアート”はちょっとあまり理解ができず敬遠していたところがあったのだけど、今回の授業を受けて目からウロコで、一気にキュビズムに対する認識が変わった。
様々な視点を一つの絵に盛り込む、くらいの認識しかなかったし、それがどうしたの?という疑問が払拭できなかったので、正直見てもよくわからず、不思議な絵だなぁ…と思って終わることがほとんどだった。
自分の中でそれがあまりに見事に、なるほどなんて面白い作品なんだと思わさせてくれた先生の解説をここでうまくトレースすることを試みようと思っている。

今回扱った絵は以下の二つ。
BraqueとPicassoのギタリストの絵である。


2つとも、一見するだけではよくわからない。特に下のピカソの絵は以前ポンピドゥーで見た時はわっかんねぇなぁ。と思ってすぐ踵を返した記憶がある。

実際、まずは見て自分で考える、というのが授業のスタイルなのでとりあえず今回はここでストップ(笑)
既にキュビズムのことを良く知ってて素の楽しみ方を知ってる人は多分読んでも、なんだよ今さらかよクダラネーとなるんだろうけどまぁとりあえず先生の見事な解説とそしてそのパッションを上手く伝えられるように頑張ってみます



2011年11月2日水曜日

アンダルシア旅行その①:Faro

1週間のバカンスを使ってアンダルシア地方を回ってきた。
ポルトガルのファロを起点とし、セビリア、コルドバ、グラナダ、フエンヒローラ、ミハスと回ってマラガから帰国。

忘れないうちに。去年のスペイン旅行はいつかいつかと思ってそのまま忘れてしまった(笑)

ヨーロッパそのnカ国目。ポルトガル。
前日夜に飛行機がとんでくれなかったせいで、半日遅れでファロにつく。
空港の一部が見事にぶっ壊れていたせいもあって市内行きのバス停が見つからず(看板ないうえ人によってバス停の場所が変わるからタチが悪い)、空港から脱出するまでに30分以上さまよってた。

そんなこんだでファロ滞在時間は僅か2時間あまり。
 なんと国立自然公園(湿原)にすぐ隣接しているという不思議な街。写真左手は海のように見えて湿原らしく、海岸線は10キロほどさらに進まないといけないらしい。リゾートビーチもそっちにあるそうな。
小さなしきり壁があってそのすぐ横を線路が走る。なんだか可愛らしい。
顔出して覗いていたら電車がきたので慌てて首を引っ込める。
伝統のすぐ横をのんびり抜けていく電車。
この距離感、日本じゃ出せないよなぁ。電柱と人と線路と海の密接度合い。


 小さな城壁都市になっていて、中は2~3階建てのちょっとカラフルor白塗りの建物が詰まっている。旧市街は本当に小さくて、外周は歩いて20分かからないんじゃないだろうか。
もともとバカンス地なのだが今はオフシーズン、そのうえポルトガル内でも相当南で主要都市からも離れていることもあって静かな街だった。
もう2時間くらいあればバスで海岸まで行って帰ってこれたんだけどな。

お昼をのんびり食べて、その日のうちに次なる目的地セビーリャへ。
バスで4時間ゆられていく。
交通費は16ユーロ。ヨーロッパのバスが主要交通な地域のバス料金の安さは一体何なんだろう。人件費の安さだけでここまで行くとは思えないし、そこまで補助金が入っているのだろうか。

2011年10月11日火曜日

国際空港24時

先月末の新聞で切りぬいてた記事でシャルルドゴールについての面白い記事があった。

記事自体はロワシー(シャルルドゴールのこと)の夜間空港制限を求めるデモが明日あるよ!っていう記事で、夏場窓を開けて眠れない近隣住民とかが文句を言っている記事なのだけど、その中に色々とデータが出ている。

パリには国際空港が2つあり、シャルルドゴールとオルリーの二つがある。前者はパリ中心から25キロ、後者は16キロである。ちなみに成田は50キロくらい離れていて、羽田が20キロ程度だったかと思う。

ロワシーは24時間空港であるのだが、23-6時の間の夜間飛行便が160便あるらしい。

最も、国際ハブ空港として、フル稼働させることは競争力維持のために必要不可欠だと僕は思っていた。

しかし、なんと、ヨーロッパ最大のヒースローは夜間便が僅か16便しかないらしい。これは意外だった。ヨーロッパの覇権を取るのに必ずしも24時間フル稼働で運営しないといけないと言うわけではないのか。

ドバイなんぞ行けば空港はリアルに24時間運営していて、深夜1時について深夜3時に出発、なんぞざらである(ていうか日本に帰ろうとするとこの便になる)。まぁ、これはヨーロッパに照準を合わせてるからだろうけど、それでもハブ空港、を目指すならそれが必要なのかと思っていた。

夜間飛行が成田のように制限されているオルリーと違ってロワシーはフル稼働。このままヨーロッパ一を取るにはもっと滑走路を増やし、さらに24時間体制が必要ではないか!と言われているくらいである。 日本だって、羽田がついに深夜便を運航し国際空港!の名を再び冠したところであるのに。あのヒースローは違うのか、と。

最もパリの場合はFedexのハブになっているらしくて、空港内に8haもの基地を持ち、夜間に200カ国へ飛行便を届けるための貨物空港もかなり出ているので一概に述べることは難しいのだけれど。

この先恐らく、フランスは、例え騒音問題があろうとも、(既に24時間の運営が成り立っているので)ロワシーはこのまま24時間を続ける事がメトロポールパリとして重要なのである!と言うであろう。記事の中で東京は夜間飛行禁止命令が田舎(成田を指しているw)でも出ているじゃないか!というコメントがあった中、今後の国際競争の中で、空港の運営時間というのはどういう風に規定されていくか、というのは非常に興味深い。



2011年10月5日水曜日

パリ史①

今学期はちょっと暇になったので、ミニブックのHISTOIRE DE PARISというパリ史についての本を読み始めました。
以下は備忘録的なもので、4,5ページ分くらいの内容をツイッタ―で呟いて、それをまとめたものです。なんとか早いうちに読み終えたいものだけど。


パリの昔の名前はルテチア。近辺の堆積層から取れる鉱物などを得ていたらしい。紀元2世紀ごろから今のシテ島に城壁を作り、橋を2本通した。それ以外の 島々では先頭のギルドが支配者層となっていた。シテは交易の交差点として、税をあつめ、商業が行われていた。今のマレはかつての河道

そのうちカエサル率いるローマ軍にうち負かされる。その後はローマお決まりの土木開発。ルーアンやMelunに向けて道が作られていった。次なる発展はセーヌ左岸に向かうのだが、これは現在のマレが湿地体で、増水被害を受けにくい理由でまずは左岸から発展したらしい。

三世紀になるとキリスト教が流行り出し、フン族の進行を撃破し、5世紀末に王国を気付く。その後、キリスト教の流行によりサンジェルマンデプレなどの教会 が建設。7世紀末には王がクリシーに宮殿を設置したことにより衰退するが、ノルマンディーの進行を経て再び威厳を取り戻すのだった

2011年7月25日月曜日

引っ越しダイジェスト

引っ越しというのは人の心を折るには余りに十分な力を持っている。(T.K)

一応終わりました、引っ越し。今古い家の掃除を殆ど終えて、明日の朝には引き払い完全以降。完全なるパリジャンへと進化します。


うーむ、都市と土木についてのブログじゃなかったっけこれ…。


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僕の家、Noisy-champsから次なる家までは片道50分はあろうか。

車を借りなかった僕にとって、引っ越し手段はスーツケースやバックパックに荷物を詰めてそのまま移動というなんとも原始的なスタイルだった。

1人では無理なので、仲間を呼んだ。

スーツケースも借りて荷造り。

なんと、欲を張れば一往復で全ての引っ越しが終わりそうじゃないか。

気を良くした僕は、友達のスーツケースにはありったけの服を、自分のスーツケースにはありったけの資料をぶち込んだ。

結果、結構重いスーツケースと、世にも凶悪なスーツケースが生まれることになる。

引っ越し当日、
右手:40kgくらいあるんじゃないのこれ…という凶悪なスーツケース
左手:パソコン関係と軽めの書類
背中:バックパック

というフル装備で臨んだ僕は、家を出る時すでにスーツケースの鬼畜っぷりを体験する。

そもそも、5年前の北欧旅という激戦を勝ち抜いてきたこのスーツケース、まっすぐには歩けない体になってしまっていた。2人の戦友は現地で散った。
そのうえ、20センチくらいしか持ち上げることができない。体全身をなんとかつかってようやっと。正直腕を曲げることで挙げることなど不可能だった。

階段をなんとかおり、電車はまぁ楽勝に進み、シテユニヴェルシテにつく。
ここからが大変だった。微妙な勾配が地獄坂に感じられるこの状況。左手は埋まっているのでうまく押せない。おまけにまっすぐ押せないのでどんどん右に進んでしまう。

それでも、残すところは12車線のペリフェリックを潜り抜け、最後の階段を登り切れば、というところで

ガガガガという

できれば効きたくなかった音とともにスーツケースが転がらなくなった。

下を覗くと左前輪のゴムタイヤがなくなっている。

なんてこった。こんなところで散るなんて…。


そこからは残ったタイヤにうまく荷重をかけながらノロノロ進むしかなかった。

なんか、悲壮感が漂ってるけど大丈夫?と言われたが、大丈夫なわけはない。

最後の階段は一時的にゆーだいに代わってもらったのだが、持ち上げようとした瞬間

足つるかと思った(by ゆーだい)

というほどの鬼畜っぷり。

最後の難関を越えたと思ってようやく受付について、鍵をもらい、ここ、どこらへんですか?と聞くと

正面の建物、と言われる。

え?

正面って、ペリフェリックの向かい側ですか?

今、スーツケース破壊してまで歩いてきた、あれ?

…。(受付のおっさんの前でしばし向かいの建物、というよりこれから渡らないといけない橋を見て呆然とする俺)

昨日はあんなこと言ってたのに、一瞬でペリフェリックを超え、リアルパリデビューを果たすことになった。

それには、再び階段を上って、橋を渡り、また階段を下りるという苦難を乗り越えないといけません。

(飽きたので中略)

無事着いた先は、小さいけど快適そうな部屋。



そう、共用キッチンの荒れっぷりと扉にカードキーが付いてるくせに便座がないトイレ(共用)を見るまでは…。



父さん、母さん

パリってのはやっぱり怖いところです。
Noisy-champsが恋しいです。


明日、Noisy-champsは引き払って、本格的にパリに移動します。

2011年7月23日土曜日

難攻不落

すっかり更新が滞ってしまった。そろそろブログで書きたいことも色々あるので、とりあえずまたリハビリがてら。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1年前の八月、俺と岩田はENPCからの住所をみて、ここが俺らの学校か!ぱりのどこにあるんだろーな!?とか言いながらちょっとわくわくしてgooglemapに住所を入れてみた。

ストリートビューにすると、なんと車しかない。

なんじゃこりゃ

俺の知ってるパリじゃねーぞ!と思ってズームアウトしてみると、なるほど、そこはパリじゃなかった。


パリは...はて、西にみなれたカタツムリがいるぞ?離れている。んー、これ、ちょっと遠くない?

認めたくない現実だが、パリが山手線と同じくらいの大きさという知識は残念ながら持っていた。

どう考えてもこれ、15km以上離れてるよ。
ここ、パリじゃなくない?
俺らの学校、パリにないよ…。

よくわからないけど、僕らの中にはENPCはパリにあるという幻想があった。だって、シアンスポとかパリのど真ん中にあるんだもの!(ちなみにENPCも昔はシアンスポがある所に会った)

でも、現実は世知辛いものだった。

そう、そこはChamps-sur-Marneという郊外だった。しょぼい筑波みたいなもんである(筑波の記憶殆どないけどごめんなさい)。
パリジャンにバンリュージャン(≒田舎っぺ)と言われてしまう(言ってきたのは日本人だけどな)、学校と駅とスーパーと寮で完結する街だ。
イメージマップとか書くものが無さ過ぎてすごい正確なものができると思う。
駅にある駅周辺の地図も7割がた緑色だ。

パリの留学!とか言っておきながら実際はパリじゃないときた。東京に俺行くよ!といって八王子や大宮に行ってるようなもんだ。詐欺も良い所である。

実際、日本の友達にはパリっぽいところ、パリの近く、正確に言うとパリじゃないんだけどね、と適当に濁していた。

とにかく、初めの一年、僕らはパリに住むことができなかったのだ。

シアンスポの奴らなんか、みんないきなりパリの中心地の方にダイレクトで降りていくというのに。あぁ!

みんな、zone4に住んでるっていうとちょっと不思議な顔をするんだぜ。。(かつてパリ住んでた人達)

とにもかくにも、ハッピーアワーが19時までなのに20時には店を閉めるバーがあるNoisy-champsの生活を終え、インターン期間の家を探している最中、パリに住む機会を得た。

環状道路のすぐ、外側。
ぎりぎり、本当にぎりぎりだが住所はパリである。
 

パリというのは基本的にリングという環状線で区切られているのだが、この家と堂々としたパリの間には合計12車線の道路が立ちふさがっている。

うん、ここ、パリ?違くない?入居申請をしに行く時僕は思った。だが、住所はパリを表記する75が冠されている。
なるほど、かろうじてパリだが、まだまだそう簡単にはお前をパリに入れさせるわけにはいかないってことか。

行く手を阻む壁はでかい。

2カ月の関所での審査を経て、ついに9月には一歩前進して、その12車線の道路のすぐ内側にある大学都市のどっかに住むことになった。

そう、つまり一年半かけて頑張ってパリに近付いても、僕の限界はパリの周縁部になんとかかじりつくところまでだったのだ。外堀の中になんとか入れてもらうのが僕の限界だった。

シアンスポの連中は一年ry

それでも、やっとパリに住めるんだぜ!

ということで今日が新しい家の鍵をもらえる日だった。

写真でなんとなーくの雰囲気は知ってるモノの、自分の部屋が道路に面してるかとかも気になるし、実際どんくらいの広さかもよくわかってないので、ちょっとどんな部屋かわくわくしながらモンパルナスの会社を後にし、受付にて、今日から入居するんですがー、と言ったら


”じゃー、今月分の家賃と来月分の家賃、今払ってもらえる?小切手で。”





(小切手、今日持ってないけど。)

”えーっと、クレジットカードじゃだめですかね?”

”或いは現金でも良いよ。そしたら7月分の180ユーロだけ今払ってくれればいいぜ!”

”ATMってあります?”

”シテの中にBNPがあるよ!(みずほみたいなもんだと思って)”

”えっと、ソシエテジェネラルは?(MUFJみたいな)”


”ないね!”

  た。
  

こんなところでまさかの検問に通らず。
新居ナウとか呟く気満々だったのに、雨にぬれて失意のままRERにのってNoisy-champsに戻ってきました。
なるほど、お前には郊外がお似合いってわけね。

確かに、日本のうちの前にも多摩川という巨大河川が雄大に流れ、僕と東京都の間には超えられない壁が立ち塞がっているよ。あんなん直線距離にして300mもないのに!でも狛江市の称号すら手に入れられない。

というわけで、一年半かけてのパリ侵攻計画はうんともすんともうまくいきません。

フランスはパリであると言ってのけるだけの首都ではある。難攻不落も良いところです。
パリデビューまで、後10センチ(鍵は目の前にあったのに)というところで、逃げて行ってしまいました。

父さん、母さん。
パリってぇ街は大層恐ろしいところです。





つーわけで、明日からパリに引っ越します。

2011年6月12日日曜日

告知。

最近、忙しくて自分の考えを発展させる余裕を取れない。
テストが全部片付いたら…ちょっと一息つけたいもんだな。折り返し地点にきたわけだし。
さて、今年の夏に、イスラエルの大学主催で
イスラエル・パレスチナ問題を考えるというワークショップがあるらしい。
なんて面白そうなんだろう。
僕の中で最大の国際問題の一つを現地でスタディーツアーできるってのは
非常に有意義な経験になる気がする。
奨学金問題さえクリアできれば是非とも行きたいところ。
あいにく自分は授業に被ってるので行けませんが…。 
ガリリカレッジ(Galilee International Management)  
中東およびイスラエル・パレスチナ問題
Middle East & Israel-Palestinian Conflict Studies Program募集について

1.概要
 参加者は2011年9月2日~15日の約2週間、講義とスタディーツアーを組み合わせた“体験
学習型アプローチ”で、当地域の歴史を概観するとともに、現代の社会的、経済的状況を分
析し、さらには民族的、宗教的背景を理解することを通じ、混迷極める中東情勢とりわけイ
スラエル・パレスチナ問題についてより深い理解を図ります。
 また、当プログラムは特別に日本人学生を対象としており、現地人講師による講義は日本語
通訳付、さらに当該問題における日本人専門家を招聘し、日本と当地域との関係についての
講義も行われます。
2.対象者
 ○中東地域、イスラエル・パレスチナ問題に関心を抱く日本人学生(学部生以上)。
3.諸経費
 授業料:USD 1,500
 滞在費:USD 2,400
 ※プログラム参加にあたって奨学金への応募可。
 (興味のある者はガリリカレッジに問い合わせのこと)
4.提出書類および提出部数
 下記連絡先へお問い合わせください。
 申請書を希望の方法(メール、ファックス、郵送)にて取寄せ可能です。
 
 http://www.galilcol.ac.il/page.asp?id=341

2011年5月27日金曜日

ぬてらといふもの

ヌテラ。

フランスに一定期間いて、ヌテラを知らない人がいたら、ペテンか、よっぽど外に出ないで引きこもって他者との交流を避けていたに違いない。

それくらい、ポピュラーなヌテラ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8C%E3%83%86%E3%83%A9

それは、イタリアのフェレッロっていう会社が生産しているへーゼルナッツ系のチョコクリーム。フランス人が好きすぎて3年前までフランスの製品だと勘違いするくらい、絶大な人気を誇るアイテムである。


フランス人は、ヌテラが本当に大好きだ。
いや、もう信じられないくらい。たまに、アホみたいな大きさの瓶が売ってたりする。
ヌテラを塗りたくってる時の子供は良い顔している。
パンに塗る時は食パンの表面が見えなくなるくらいヌテラを塗るし、クレープ屋でもチョコクレープと並列してヌテラクレープがある。
あの白いラベルに赤い文字は本当に無視できない存在なのだ。

最近は日本でも輸入食料品店で見かけるけど、昔はそこまででもなかった。
3年前にイタリア旅行してる時は某メンバーで何故ヌテラが日本には輸入されないのか真剣に議論をしたほどである。

まぁ、そんなヌテラについてのちょっと面白い、そして割とどうでもいい情報を授業で教えてもらったのでここでちょっと公開。
なんともまぁ限られた人にしか役に立たない、いや限られた人にとっても役にはたたない情報か。


ソースはフェレッロのロジスティックのコンサルやった人である。
で、今回聞いて、驚いたこと。

①ヌテラ最大の工場はRouenにあるということ。毎日とんでもない量のヌテラがノルマンディーで生産されて、そこからフランス各地に運ばれていく。
ちなみに、フランスのヌテラ工場はフランスには一つしかなくて、ここからフランス内の4つの倉庫を使いながらベルギーやフランス各地に輸送していく。
ルーアンに近いルアーブルというフランス最大港には一日3,4回へーゼルナッツを詰んだコンテナがやってくるそうな…。おそろしや。

そう、これで、ルーアンは、ジャンヌダルク処刑の地、モネの連作大聖堂がある地に加えて世界で一番ヌテラを生産する場所という新たな称号を得たわけだ。

②他者には真似できない味
ヌテラの模造品ってのは酷い味らしい(その場にいたフランス人の友達、及びその先生曰く)。コカコーラやケンタッキーみたいに、特許は出さずに徹底的な情報管理からその配合を秘密にしているのではないらしい(ていうか、上記二つはこれであってるよね?)。
というよりは、ヌテラの場合はヌテラに使う種類のある特定のへーゼルナッツについては、ほぼ全てフェレッロ社が買い占めているんだそうだ。独占による他者の模倣の阻止。
まぁこの独占によって、ヌテラという単語はフランス内で絶対的な地位を保っているわけだ。コカコーラに対するペプシみたいな存在も聞いたことがない。


②フランス人のチョコ消費量は北部が多い
これは、ケーススタディで見てたものなんだけど、フランスにおける二大チョコ生産時期(クリスマスとイースター)のデータを見ていると、フランス人は北部(パリ、リールなど)でのチョコ消費量が圧倒的に多いらしい。後はマルセイユ、ニース、ボルドーなどで他の都市はそこまででもないそうな。地域によってヌテラの売り上げも結構違うみたい。やっぱ寒いからなんだろうか…?
データで、君等はチョコ好きすぎって、示されるのってちょっと恥ずかしい。

というわけで、とある種のへーゼルナッツの絶対的覇者フェレッロは、ルーアンというエンジンを起点にチョコが大好きな北部フランス人にヌテラを全力でばらまいている、というお話。

多分、3人くらいにはツボだったんだと思うんだ。

2011年5月15日日曜日

パリを考える-petite pause- パリ?Paris?巴里?





どれもこれもみんなれっきとしたパリ。意図的だけどね、もちろん。
多くの日本人からはきっと抜け落ちているだろうけど、これも立派なパリ。

でも、多くの観光客が滞在して”完成”するパリのイメージにこれらの風景は入って来ないだろう。じゃあ、上の風景たちは一体何なのか。
パリであってパリでない?
シンボル達が作り出す”Paris”はparisなんだろうか。

東京も似たようなシチュエーションではあるけれど、パリのParisという強烈なアイデンティティという光の陰に隠れてしまった場所は単なる付属品なのか、それとも 影があるからこその光なのか。

cela me trouble.
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2011年5月10日火曜日

パリを考える4-パリ市のプロジェクト①:歩行者政策


パリはフランスであり、フランスはパリである。


そんなことが言えてしまうようなこのパリという象徴的な存在。

全ての道はローマに通ずというが、パリもそれに当たるくらい全ての交通の結節点になっているし、第2の都市リヨンとは圧倒的な力の差がある。

パリというのは他の地域と違い、パリという市が独立で存在している。
所謂カタツムリの殻をなす20区に加えて、東西にある2つの森がパリ市だ。

13-20区は新たに追加されたことは以前にも書いた。

グランパリという国家主導の中央集権的かつトップダウン的なプロジェクトが動いているが、そのフランスを象徴するパリというのもまた、強力な力を持って次々とプロジェクトを行っている。

東京も、安藤さんを中心に東京に風を入れよう、埋立地に森を!とか色々アイデアを提唱しているが、パリは大胆極まりない。

正直、この歴史都市によくこんな大胆な手を加えられるものだと感心する。

意見好きなフランス人だからかわからないが、大規模プロジェクトをやる時は、フランスは公開討論などを経ないといけない。その割には結局行政の力が強くて(或いは民間が反対しないのか?)、とにかくガーンと劇的な計画を行ってしまう。

その代表的な例はVelib'だろう。一日1.7ユーロで30分以内ならで自転車乗り放題というあれである。
ここ数年のうちにパリに来た人は、到る所に自転車ステーションがあったのを目にしたに違いない。街を歩いていれば嫌でも目に付く。目につかなかった人は、パリ、ちゃんと見て回った?と疑問を呈してしまう。それくらいパリ中に整備されている。
今では当たり前のVelib'だが、実は僕が初めてパリを訪れた7年前には存在しなかった。それが、あっという間にパリ中に広まった。
パリで劇的な成功を収めたベリブシステムはフランスの到る所で見かけられるようになった。

これは自動車削減政策を掲げるパリ市長ドゥラノエのおかげであろう。ゲイでも有名なパリ市長であるが、かれは自動車削減プロジェクトや歩行者優先のプロジェクトを次々と経ちあげている。
そのうちのいくつかのプロジェクトを歩行者政策に焦点をしぼって以下に簡単に紹介したいと思う。

projet les halles(chatelet)

les hallesは新宿みたいな場所だ。交通の要所であり、3本のRERと5本の地下鉄が交差するパリ最大の交通要所である。パリ郊外からパリにやってくる場合このles hallesを通るのが普通だ。パリのど真ん中にある大きな広場を歩行者のための公園にして、駅とショッピングモールと公園を結び、パリの玄関としての新たな顔を作ろう、というのがこのプロジェクトである。

②セーヌ岸
もうひとつ市長肝入りのプロジェクトはパリのセーヌ岸の解放である。
現状
今現在はセーヌ川の両岸というのは観光客としても大事な場所なのだが、車の通りも非常に激しい。これに市長が決断を下し、セーヌ左岸道路は完全に歩行者空間に、右岸も車道を大幅に制限し、セーヌ川岸を開放し、歩ける岸を作ろう!というものである。
2002年から夏場にセーヌ岸に砂浜を作っていたが(僕はまだ見たことない)、これの延長線上であろう。車は環状通り或いはリボリ通りなどの大きな別のブルバードが吸収してくれるだろうという見込みで車利用者の反対を押し切って?再来年には実現される一大プロジェクトである。
将来図
日本で言うと目白通りとか山手通りを完全シャットアウトするような感じだろうか?
工事規模としては大きなものではないが、パリのあり方をラディカルに変えてしまう。こんな大胆なこと、東京じゃなかなかできないだろう。

③バスティーユ広場の開放
バスティーユ広場と言えばかつてバスティーユ監獄があったところ、そしてパリ市民の誇りであろう、フランス革命が起こった場所である。僕は世界史の知識に非常に乏しかったのでこっちにきてからしったけど、市民が火薬を奪うためにバスティーユ監獄を襲撃したのがフランス革命であり、パリにとって非常に大事な場所だ。

しかし、パリの大きな広場は基本的に全て交差点になっており、その中心まで歩いて行くのは事実上不可能に近い。凱旋門にいくのも地下道を通らないといけないし、バスティーユもナシオンもコンコルドも、中央にあるシンボルの周りは道路という屈強な壁に阻まれている。
そのバスティーユ広場から車を排除して市民に開放しようというプロジェクトである。


これらのプロジェクトはパリと言うイメージを少なからず変えるだろう。今ではまだパリは車中心の街だが、これらのプロジェクトが進行していくともっと歩行者の街というイメージが定着するかもしれない。
パリは小さいとはいえ、これでも200万人を抱える大都市である。良かれ悪かれ、このようなプロジェクトを一気にやってしまうのがパリである。



元々、ヨーロッパは大胆なことをやってのける風潮があるようには思う。ストラスブールで大胆に歩行者中心政策で中心街から車を排除し、トラムを使ったまちづくりを行ったり、コペンハーゲンのストロンハイエでも同じく中心街から車を排除し、歩行者のまちを作って、街に活性化をもたらした。或いはグッゲンハイム美術館を作ってイメージを変えたビルバオ。このような例はあるが、パリはそれに比べて遥かに大きい町。フランスが誇る首都である。それでもこのような大きなプロジェクトが起こる。

いずれのプロジェクトも、正直東京じゃ考えられない。もちろん、東京はパリに比べて遥かに大きい。それはわかっている。パリ圏(パリとその周辺を含む)の人口は1千万規模だが、東京は3600万(横浜など含む東京から50-70キロ圏内)である。とはいえ、例えば山手線内の人口はパリと同じくらいであるし、パリの面積より山手線内の面積の方が小さい。
安藤さんはそんな山手線内は全て車を排除してしまえばいいじゃないか!と言っていたが、僕は残念ながら東京がそんな姿になる姿は微塵にも想像がつかない。皇居周辺道路が全て歩行者空間になることだって想像だにしない。
東京と言う街を変えるのは一筋縄ではいかないだろう。シンボルの一つであろう東京駅の復元でさえ、随分長期間委員会で話し合っていたみたいだし、結局金がなくて、空中権を売って両脇に巨大な高層ビルが建つことの引き換えにようやく東京駅はかつての姿を取り戻せる、という具合だ。



逆に言えば、パリにおけるこのような大きなプロジェクトは市長や大統領の力によって断行されてしまう。

利権関係でなかなかどうにかプロジェクトが進行しにくい東京と、パリと果たしてどちらがいいのだろうか。
例えばグランパリのように、工学的には地下鉄の需要予測が期待値の半分しか成り立たないと言われているプロジェクトも、やる!といったら実行されてしまう。

セーヌはパリの顔である!といって車を撤去したパリと、お金もないし東京の中心のはずである日本橋の高架高速道路を撤去できない東京。

相互に憧れる都市でありながらそのあり方は全く違うように思える。



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