2011年6月12日日曜日

告知。

最近、忙しくて自分の考えを発展させる余裕を取れない。
テストが全部片付いたら…ちょっと一息つけたいもんだな。折り返し地点にきたわけだし。
さて、今年の夏に、イスラエルの大学主催で
イスラエル・パレスチナ問題を考えるというワークショップがあるらしい。
なんて面白そうなんだろう。
僕の中で最大の国際問題の一つを現地でスタディーツアーできるってのは
非常に有意義な経験になる気がする。
奨学金問題さえクリアできれば是非とも行きたいところ。
あいにく自分は授業に被ってるので行けませんが…。 
ガリリカレッジ(Galilee International Management)  
中東およびイスラエル・パレスチナ問題
Middle East & Israel-Palestinian Conflict Studies Program募集について

1.概要
 参加者は2011年9月2日~15日の約2週間、講義とスタディーツアーを組み合わせた“体験
学習型アプローチ”で、当地域の歴史を概観するとともに、現代の社会的、経済的状況を分
析し、さらには民族的、宗教的背景を理解することを通じ、混迷極める中東情勢とりわけイ
スラエル・パレスチナ問題についてより深い理解を図ります。
 また、当プログラムは特別に日本人学生を対象としており、現地人講師による講義は日本語
通訳付、さらに当該問題における日本人専門家を招聘し、日本と当地域との関係についての
講義も行われます。
2.対象者
 ○中東地域、イスラエル・パレスチナ問題に関心を抱く日本人学生(学部生以上)。
3.諸経費
 授業料:USD 1,500
 滞在費:USD 2,400
 ※プログラム参加にあたって奨学金への応募可。
 (興味のある者はガリリカレッジに問い合わせのこと)
4.提出書類および提出部数
 下記連絡先へお問い合わせください。
 申請書を希望の方法(メール、ファックス、郵送)にて取寄せ可能です。
 
 http://www.galilcol.ac.il/page.asp?id=341

2011年5月27日金曜日

ぬてらといふもの

ヌテラ。

フランスに一定期間いて、ヌテラを知らない人がいたら、ペテンか、よっぽど外に出ないで引きこもって他者との交流を避けていたに違いない。

それくらい、ポピュラーなヌテラ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8C%E3%83%86%E3%83%A9

それは、イタリアのフェレッロっていう会社が生産しているへーゼルナッツ系のチョコクリーム。フランス人が好きすぎて3年前までフランスの製品だと勘違いするくらい、絶大な人気を誇るアイテムである。


フランス人は、ヌテラが本当に大好きだ。
いや、もう信じられないくらい。たまに、アホみたいな大きさの瓶が売ってたりする。
ヌテラを塗りたくってる時の子供は良い顔している。
パンに塗る時は食パンの表面が見えなくなるくらいヌテラを塗るし、クレープ屋でもチョコクレープと並列してヌテラクレープがある。
あの白いラベルに赤い文字は本当に無視できない存在なのだ。

最近は日本でも輸入食料品店で見かけるけど、昔はそこまででもなかった。
3年前にイタリア旅行してる時は某メンバーで何故ヌテラが日本には輸入されないのか真剣に議論をしたほどである。

まぁ、そんなヌテラについてのちょっと面白い、そして割とどうでもいい情報を授業で教えてもらったのでここでちょっと公開。
なんともまぁ限られた人にしか役に立たない、いや限られた人にとっても役にはたたない情報か。


ソースはフェレッロのロジスティックのコンサルやった人である。
で、今回聞いて、驚いたこと。

①ヌテラ最大の工場はRouenにあるということ。毎日とんでもない量のヌテラがノルマンディーで生産されて、そこからフランス各地に運ばれていく。
ちなみに、フランスのヌテラ工場はフランスには一つしかなくて、ここからフランス内の4つの倉庫を使いながらベルギーやフランス各地に輸送していく。
ルーアンに近いルアーブルというフランス最大港には一日3,4回へーゼルナッツを詰んだコンテナがやってくるそうな…。おそろしや。

そう、これで、ルーアンは、ジャンヌダルク処刑の地、モネの連作大聖堂がある地に加えて世界で一番ヌテラを生産する場所という新たな称号を得たわけだ。

②他者には真似できない味
ヌテラの模造品ってのは酷い味らしい(その場にいたフランス人の友達、及びその先生曰く)。コカコーラやケンタッキーみたいに、特許は出さずに徹底的な情報管理からその配合を秘密にしているのではないらしい(ていうか、上記二つはこれであってるよね?)。
というよりは、ヌテラの場合はヌテラに使う種類のある特定のへーゼルナッツについては、ほぼ全てフェレッロ社が買い占めているんだそうだ。独占による他者の模倣の阻止。
まぁこの独占によって、ヌテラという単語はフランス内で絶対的な地位を保っているわけだ。コカコーラに対するペプシみたいな存在も聞いたことがない。


②フランス人のチョコ消費量は北部が多い
これは、ケーススタディで見てたものなんだけど、フランスにおける二大チョコ生産時期(クリスマスとイースター)のデータを見ていると、フランス人は北部(パリ、リールなど)でのチョコ消費量が圧倒的に多いらしい。後はマルセイユ、ニース、ボルドーなどで他の都市はそこまででもないそうな。地域によってヌテラの売り上げも結構違うみたい。やっぱ寒いからなんだろうか…?
データで、君等はチョコ好きすぎって、示されるのってちょっと恥ずかしい。

というわけで、とある種のへーゼルナッツの絶対的覇者フェレッロは、ルーアンというエンジンを起点にチョコが大好きな北部フランス人にヌテラを全力でばらまいている、というお話。

多分、3人くらいにはツボだったんだと思うんだ。

2011年5月15日日曜日

パリを考える-petite pause- パリ?Paris?巴里?





どれもこれもみんなれっきとしたパリ。意図的だけどね、もちろん。
多くの日本人からはきっと抜け落ちているだろうけど、これも立派なパリ。

でも、多くの観光客が滞在して”完成”するパリのイメージにこれらの風景は入って来ないだろう。じゃあ、上の風景たちは一体何なのか。
パリであってパリでない?
シンボル達が作り出す”Paris”はparisなんだろうか。

東京も似たようなシチュエーションではあるけれど、パリのParisという強烈なアイデンティティという光の陰に隠れてしまった場所は単なる付属品なのか、それとも 影があるからこその光なのか。

cela me trouble.
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2011年5月10日火曜日

パリを考える4-パリ市のプロジェクト①:歩行者政策


パリはフランスであり、フランスはパリである。


そんなことが言えてしまうようなこのパリという象徴的な存在。

全ての道はローマに通ずというが、パリもそれに当たるくらい全ての交通の結節点になっているし、第2の都市リヨンとは圧倒的な力の差がある。

パリというのは他の地域と違い、パリという市が独立で存在している。
所謂カタツムリの殻をなす20区に加えて、東西にある2つの森がパリ市だ。

13-20区は新たに追加されたことは以前にも書いた。

グランパリという国家主導の中央集権的かつトップダウン的なプロジェクトが動いているが、そのフランスを象徴するパリというのもまた、強力な力を持って次々とプロジェクトを行っている。

東京も、安藤さんを中心に東京に風を入れよう、埋立地に森を!とか色々アイデアを提唱しているが、パリは大胆極まりない。

正直、この歴史都市によくこんな大胆な手を加えられるものだと感心する。

意見好きなフランス人だからかわからないが、大規模プロジェクトをやる時は、フランスは公開討論などを経ないといけない。その割には結局行政の力が強くて(或いは民間が反対しないのか?)、とにかくガーンと劇的な計画を行ってしまう。

その代表的な例はVelib'だろう。一日1.7ユーロで30分以内ならで自転車乗り放題というあれである。
ここ数年のうちにパリに来た人は、到る所に自転車ステーションがあったのを目にしたに違いない。街を歩いていれば嫌でも目に付く。目につかなかった人は、パリ、ちゃんと見て回った?と疑問を呈してしまう。それくらいパリ中に整備されている。
今では当たり前のVelib'だが、実は僕が初めてパリを訪れた7年前には存在しなかった。それが、あっという間にパリ中に広まった。
パリで劇的な成功を収めたベリブシステムはフランスの到る所で見かけられるようになった。

これは自動車削減政策を掲げるパリ市長ドゥラノエのおかげであろう。ゲイでも有名なパリ市長であるが、かれは自動車削減プロジェクトや歩行者優先のプロジェクトを次々と経ちあげている。
そのうちのいくつかのプロジェクトを歩行者政策に焦点をしぼって以下に簡単に紹介したいと思う。

projet les halles(chatelet)

les hallesは新宿みたいな場所だ。交通の要所であり、3本のRERと5本の地下鉄が交差するパリ最大の交通要所である。パリ郊外からパリにやってくる場合このles hallesを通るのが普通だ。パリのど真ん中にある大きな広場を歩行者のための公園にして、駅とショッピングモールと公園を結び、パリの玄関としての新たな顔を作ろう、というのがこのプロジェクトである。

②セーヌ岸
もうひとつ市長肝入りのプロジェクトはパリのセーヌ岸の解放である。
現状
今現在はセーヌ川の両岸というのは観光客としても大事な場所なのだが、車の通りも非常に激しい。これに市長が決断を下し、セーヌ左岸道路は完全に歩行者空間に、右岸も車道を大幅に制限し、セーヌ川岸を開放し、歩ける岸を作ろう!というものである。
2002年から夏場にセーヌ岸に砂浜を作っていたが(僕はまだ見たことない)、これの延長線上であろう。車は環状通り或いはリボリ通りなどの大きな別のブルバードが吸収してくれるだろうという見込みで車利用者の反対を押し切って?再来年には実現される一大プロジェクトである。
将来図
日本で言うと目白通りとか山手通りを完全シャットアウトするような感じだろうか?
工事規模としては大きなものではないが、パリのあり方をラディカルに変えてしまう。こんな大胆なこと、東京じゃなかなかできないだろう。

③バスティーユ広場の開放
バスティーユ広場と言えばかつてバスティーユ監獄があったところ、そしてパリ市民の誇りであろう、フランス革命が起こった場所である。僕は世界史の知識に非常に乏しかったのでこっちにきてからしったけど、市民が火薬を奪うためにバスティーユ監獄を襲撃したのがフランス革命であり、パリにとって非常に大事な場所だ。

しかし、パリの大きな広場は基本的に全て交差点になっており、その中心まで歩いて行くのは事実上不可能に近い。凱旋門にいくのも地下道を通らないといけないし、バスティーユもナシオンもコンコルドも、中央にあるシンボルの周りは道路という屈強な壁に阻まれている。
そのバスティーユ広場から車を排除して市民に開放しようというプロジェクトである。


これらのプロジェクトはパリと言うイメージを少なからず変えるだろう。今ではまだパリは車中心の街だが、これらのプロジェクトが進行していくともっと歩行者の街というイメージが定着するかもしれない。
パリは小さいとはいえ、これでも200万人を抱える大都市である。良かれ悪かれ、このようなプロジェクトを一気にやってしまうのがパリである。



元々、ヨーロッパは大胆なことをやってのける風潮があるようには思う。ストラスブールで大胆に歩行者中心政策で中心街から車を排除し、トラムを使ったまちづくりを行ったり、コペンハーゲンのストロンハイエでも同じく中心街から車を排除し、歩行者のまちを作って、街に活性化をもたらした。或いはグッゲンハイム美術館を作ってイメージを変えたビルバオ。このような例はあるが、パリはそれに比べて遥かに大きい町。フランスが誇る首都である。それでもこのような大きなプロジェクトが起こる。

いずれのプロジェクトも、正直東京じゃ考えられない。もちろん、東京はパリに比べて遥かに大きい。それはわかっている。パリ圏(パリとその周辺を含む)の人口は1千万規模だが、東京は3600万(横浜など含む東京から50-70キロ圏内)である。とはいえ、例えば山手線内の人口はパリと同じくらいであるし、パリの面積より山手線内の面積の方が小さい。
安藤さんはそんな山手線内は全て車を排除してしまえばいいじゃないか!と言っていたが、僕は残念ながら東京がそんな姿になる姿は微塵にも想像がつかない。皇居周辺道路が全て歩行者空間になることだって想像だにしない。
東京と言う街を変えるのは一筋縄ではいかないだろう。シンボルの一つであろう東京駅の復元でさえ、随分長期間委員会で話し合っていたみたいだし、結局金がなくて、空中権を売って両脇に巨大な高層ビルが建つことの引き換えにようやく東京駅はかつての姿を取り戻せる、という具合だ。



逆に言えば、パリにおけるこのような大きなプロジェクトは市長や大統領の力によって断行されてしまう。

利権関係でなかなかどうにかプロジェクトが進行しにくい東京と、パリと果たしてどちらがいいのだろうか。
例えばグランパリのように、工学的には地下鉄の需要予測が期待値の半分しか成り立たないと言われているプロジェクトも、やる!といったら実行されてしまう。

セーヌはパリの顔である!といって車を撤去したパリと、お金もないし東京の中心のはずである日本橋の高架高速道路を撤去できない東京。

相互に憧れる都市でありながらそのあり方は全く違うように思える。



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2011年4月28日木曜日

パリを考える3-パリとメトロポリタン1-

パリで最近動いている大統領主導の一大プロジェクトがある。

その名もGrand Paris。

文字通りパリを大きくしようというものだ。
けれども、パリという大きさはかつての城壁でくっきり区切られているので、パリの行政区域が直接大きくなるわけではない。
ただ、周縁部に無人運転のメトロを通して、パリから衛星都市のように結ばれている各地域を結び、クラスター(産業重点地区みたいなもん)を結び、パリを世界レベルでたちうちできるメトロポリタンにしようという計画である。

その目的はNY、TOKYO、LONDONに匹敵するメトロポリタンになり、経済発展をすること。

その大きな目玉の一つが上に述べた無人運転のメトロである。国家主導で行われるGrand Huitに加えて、パリ市が主導のarc expressの2つが出来る予定。
さらにはRATPというパリ都市交通局による既存メトロの延伸、トラムの延伸、4本のトラムの新設などがあげられる。下の図に書かれている殆どが、パリ周縁部の交通計画の一覧である。


点線部がgrand huitのラインで、右端にあるNoisy-champsはまさに僕が今住んでいるところ、そして我々のENPCが位置する所である。
ここは将来的にクラスターデカルトとして、学術都市(よーするに筑波みたいんところ)として、東の中心地区の一つになろうとしているのだ。将来的には今のRER Aに加えて、このgrand huit、そしてトラムが延伸されることになっているらしい。


Grand Parisについては自分もまだ消化しきれていない部分も多いからまた改めて何度か考えてみたい。そもそも、まだ公開議論がつい先日終わったばっか(だったかな?)であって、このラインも確定していない。
以下は僕の主観的意見が多分に盛り込まれている。この先変わることは大きくあると思うけど、今の自分の立ち位置として記録しておくのは悪くないと思った。

メトロポリタン最大の都市としてTOKYOは必ず出てくる大先輩である。その、メトロポリタンの大先輩の一住人として言わせてもらうと、恐らくこのグランパリは成功しない。
一つは武蔵野線レベルの大きさの鉄道を無人のメトロで運転するのはあまりに無茶があること。話題にはなっても赤字から抜け出せないし、すでに直線状で結ばれているRERのクオリティが余りに低いので恐らく目論見はうまくいかないんだろうと思っている。風に弱い武蔵野線の延長は107kmなのに、このgrand huitは総延長160kmになるはず。それを地下で建設するなんて信じられないくらいコストがかかる。
もうひとつ、このプロジェクトはフランス伝統の中央集権主義から少しでも環状線をつないで横の連携をつなごう!そして、その影響力でパリと周縁部の連携をさらに深め、パリを大きくしよう!というものだが、まず、通る駅達は全てパリの外の衛星都市。山手線のように周回する駅が魅力的ではない。普通にこの周回鉄道を通るならパリから放射状に延びる既存のRERを使って移動した方が圧倒的に早いだろう。環状線として新興都市同士をつなぐメリットがどうも見えてこないのだ。結局パリを通過することになるのではないかと思ってしまう。
そして、パリの周りのコミュニティ同士の意識も、この周回鉄道で変わるとは思えない。まず、パリが圧倒的すぎるので、パリと郊外A、B、Cみたいな扱いであるのが、郊外A,B、Cをワッカ通したからこれでパリと一体になって…というわけでもない。今回のプロジェクトではパリと周辺コミュニティの力の関係性も変わらないので、周りのコミュニティ同士がパリジャンとしての意識を持つことは難しいだろう。
ちょうどまさしく、グランパリのアイデンティティとは何かと言うプレゼンをすることもあって最近グループで議論するのだが、その話の中で、パリはフランスだよ。
パリはフランスであり、フランスはパリである。
日本でこんなこと聞いたことないが、それが言い切れるくらいフランスと言う国は中央集権的な作りをしている。お隣のドイツはそのま逆なので、友達はほんとフランスは…と良く言っている。

パリとパリ以外の差は圧倒的である。交通の便も圧倒的に違う。パリの中の交通網は素晴らしい。正直東京よりも凄いと思う(汚いけどね)。バスとメトロとヴェリブと組み合わせたら殆ど歩かないでパリじゅうを横断できる。しかし、一歩パリをでると途端に不便になる。そう、僕の家のように…orz

交通も全てパリを起点とする。全ての道はパリに通ずといっても過言でないくらい。

余談だが、昔リヨンからラロッシェルに戻ろうとした時、直線で行けるラインがあれば4時間くらいで行けそうなものなのに、TGVが全部パリ起点なので、一見遠回りなパリ経由の方が直線距離が遥かに短いルートよりも3時間近く早くつくことをみて驚愕した覚えがある。

まぁ、とはいえ、グランパリは現在動いている都市計画の中ではとても興味深いし、何より自分がこうしてその変化の中に”生”でいられる非常に貴重な体験なので目が離せない。
目が離せないもう一つの理由は東京とパリの関係性である。

圧倒的に集権的な国、メトロポリタンの先輩の日本もまさにその例の一つだろう。
メトロポリタン東京は、僕の理解が正しければ、望んでこうした超巨大都市になったわけではない。
日本の国土の開発の方針を決める、”全総”という国交省が数年に一度まとめる報告書があるのだが、1~4次で常々謳われてきたのが”国土の均衡ある発展”。巨大都市、ひいては東京への一極集中を避けるものである。
それでも東京は成長した。今では東京首都圏の人口は3400万にのぼると言う。 ちなみに、ドイツでは制度上、十万を超えれば大都市だそうだ。

常に東京の一極集中をなんとか抑えようとし、そして、度々失敗してきた。
東京メトロポリタンは、一極集中を避けようとしても避けられなかった。
東京は東京の拡大を防ごうとした。かつて、2度にわたるグリーンベルト(緑のえりあによって物理的に都市の拡大を防ぐ。ロンドンや韓国が有名)を試みたが、いずれも計画に失敗している。
世田谷区の砧公園は確かその名残だった気がする。
ある意味、封じ込めに失敗してしまって、今の世界最大のメトロポリタンが出来てしまったのだ。東京はある意味誇りだが、ある意味失敗の賜物なのかもしれない。
そして、東京と言われて思い浮かべるのは何か?東京のアイデンティティというのは僕らの分野では度々問われる質問である。

一方のパリは中央集権国家ではあるが、パリという都市を明確に区別できる。住居問題などはあるが、パリのスプロール化が問題にはなっていないはず。城郭都市なのでグリーンベルトを作らなくてもよかった。
中心部は大胆な都市計画として歴史に名を刻んだオースマンの都市計画を経験し、歴史的建造物も残り、パリと言えばセーヌ川、エッフェル塔、凱旋門、カフェ。アイデンティティに溢れている。

だから、東京が得たくても得られなかったものをパリは嫌と言うほど持っている。だから、パリと言う存在は東京の憧れだったのではないかと思う。

その、憧れの存在が、今まさに東京と言うメトロポリタンに追いつこうとしている。自分の憧れが今度は自分を目指しだしたのだ。それは、困惑するに違いない。

パリは今変わろうとしている。みんなはこれをどう思うのだろうか。

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2011年4月26日火曜日

はじめの一歩

浪人時代につけていたブログが、ちょっと懐かしかったので再掲。05年なのでもう6年前か。
そこそこ、昔のことは覚えている方だとは思うのだけど、当然ながら05年の自分の方が04年のことはしっかりと記憶に刻んでいるらしい。
まさか、こうしてフランスで生活してるとは当時の自分は思いもしまい。
スマフォなんて当然ない。当時の連絡は全部公衆電話だった。まだカフェから電話かけてたりしてたそんな時代。
初めてパリに訪れた、フランス一日目。この日の経験でインタークラス(東大2外既習クラス)に入りたいと強く思った日。ここからの2カ月の経験は結局今の自分にもつながってるわけだ。
 

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~さかのぼること1ヶ月前、2004年3月22日。~
シャルルドゴール空港に来た俺はてんぱりまくりだった。わが校からの交換留学(フランス)はパリ、リヨン、ラロッシェルとあってパリはシャルル ドゴール、リヨンはシャルルドゴールから乗換えで直接リヨンに行くのだけどラロッシェルへは一旦パリに止まってから翌日TGVで向かうことになっているの だ。そんなわけでパリに一泊するためにホテルに向かわないといけないのだけど地理もまったくわからない。で、例年先輩が空港に迎えに来てくれる。
 
 
で、まず当時交換留学生でパリに留学中で俺を空港で迎えてくれるはずのS先輩(東大生)
 
…いないし!!!えぇぇぇ。あせる俺。 
 
この時点でかなり不安になる。そうだ!携帯に電話かければ…
公衆電話のかけ方がわからん…クレジットカードさすの?え?わかんねー?汗 
3月ってのに汗だくになる俺。
フランスはテレカみたいなのじゃないと電話がかけられないんですよ。もしくは喫茶店で電話借りるか。硬貨はこそ泥見たいのが電話機破壊してもってっちゃうので駄目だそうな。
 
この時はそんなこと知らないし、あせりまくり。
 
結局先輩には無事に会え、ホテルに荷物を預けた後、ちょうど旅行でパリに来ていたT先輩(東大生)、元東大生で当時ケンブリッジ生のSさん、その妹さん、とそうそうたるメンバーに囲まれて食事しました。
俺以外の4人は全員知り合いで、俺は全員初対面だった。
まぁ思えばこの人たちのお陰で志望校をきちんと考えるまた一つの大きなきっかけになったとおもってるのですが。まぁ今日はそういう話ではないので。
とりあえず異国で友達同士であって食事するなんてすごい国際派な人達だなと思ったものです。
其のときもう一つ驚いたのがSさんと妹さん。帰国子女のせいか二人の会話が英語。
バイリンガルとかいるしW先輩という以前留学しようとしたときにお世話になった先輩の話でも日本語喋れない日本人とかの話は伺っていたのですが実際に見てかなり驚きました。
日本語と英語どっちがしゃべりやすいのか?ときくと英語のほうが楽かなぁとか…
こんな感じで色々話を聞いたりなんだりでホテルに戻ったのは夜の11時。
 
ゴチになりました。
 
飛行機内は俺の通路側だけけばい日本人のおばさんだったのでフランス語を話す機会もなく、、、ちゃんと喋ったフランス語は
 
明日チェックアウト後にもあずけておけますか?
 
という簡単な一言。それでも事前に辞書であってるかチェックしてブツブツ言いながらフロントまで歩いた記憶が残ってる。
 
↓泊まったホテルからの景色。モンパルナス駅の目の前
hhy 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(回想)当時泊ったホテルは今でも忘れもしない、Timhotelでした。モンパルナスの駅からすぐだったけど、今でもまだあるのかなぁ。一泊75euroしたんだよな、当時。2つ星なのにさー。
 
翌日はT先輩と一緒に半日観光。オルセー美術館等をまわってその後ラロッシェルへ。

2011年4月19日火曜日

パリを考える2-鉄道からみたオルセー美術館-

現在のパリには6つの主要駅があることは前回ちょこっと書いた。
最初の駅サンラザールのほか、北駅、東駅、リヨン駅、オーステリッツ駅、モンパルナス駅がある。

こいつらが、恐らく(だが、かなりの確率で)当時の12区の周縁部に、煤煙などを避けるようにして建設されたことは書いた。
恐らく、立地に関してはロンドンのそれが参考にされているんだろうと思うけど、ロンドンの駅の立地が当時の行政区とどう関連していたかは僕にはよくわからない(誰か知ってる人がいたら教えてください)。

1837年のサンラザール駅を初めとして、次々と6つの駅ができた。そして、その駅を北部鉄道、オルレアン鉄道、東部鉄道、 西部鉄道、地中海鉄道etcといった鉄道私鉄会社がそれぞれの駅を使って電車を運行していた。西部鉄道などはいくつかの合併によって誕生したものらしいが。

まぁようするに、こいつらはみな各鉄道路線の始発駅なわけだ。元々が別の会社によって運営されていた駅だからこそ、駅舎としても通過駅型でなく、終着駅タイプの駅舎になっているんだろう。東横線の渋谷駅や小田急の新宿駅みたいなもんだ。
それが、1930年になって、各路線の赤字から、国が買収し、国鉄となった。それが現在のSNCF。
現在でもフランスの長距離列車は”国”鉄である。日本とはここは違う。日本は国鉄を民営化したので全く逆の道をいってるわけだ。

今回はそのうちのオルレアン鉄道にちょっと話を絞る。

オルレアン鉄道の主要駅は今は影をひそめがちなオーステリッツ駅である(現在は夜行列車や一部近郊線に使われている)。オルレアン鉄道はその名の通り、オルレアンを通りながら、ボルドーなどへ向かう鉄道だった。


オルレアン鉄道が出来たのが確か1850年代。
そのうち、オーステリッツ駅が中心部から若干離れていたこと、同じくオルレアン鉄道が所有していた郊外線のソー線の駅が今のRER B線のDenfert-Rochereauから同じくB線のリュクサンブール駅に移り、より便利になったことに加えて万博が1900年に開催されることと合わせて、オルレアン線本線延伸が決まった。
そして作られることになったのがオルセー駅、今のオルセー美術館である。
ルーブルはかつての王宮の一つであり、オルセーは駅だった。カッコ良いリノベーションだと思う。

この際、パリの中心部に煙を持ち込まないように、ということでオーステリッツとオルセーの間の線路は全て地下化したうえ、電気軌道で走ることとなった。オルセーは、その結果駅舎に煙が入らないことを前提として設計された駅舎であるらしい。 恐らく、ホームが全部屋根で覆われていたのだろうと思う。他の駅は途中から屋根がないのはTGVに乗ったりしたことがある人ならわかるのではないだろうか。

1900年に開通したオルセー駅は、しばらくの間オーステリッツ駅に代わってオルレアン線のターミナル駅として活躍した。
スペインへの国際列車も発車していたらしい。
ここから、40年近く、パリのど真ん中を長距離鉄道が走っていたことになるのだ。

知らなかったのだが、この万博に合わせて実は、パリ左岸でもうちょっと西のアンヴァリッド(今はナポレオンの墓がある)という駅やchamp de marsといった駅も開通していたそうだ。それに加えて、luxembourgやdenfert-rochreauなども駅が通っていた。
そう、パリの地上部分にはあまり鉄道が走っていないように見えて、一時はかなりの鉄道がパリの中心部までやってきていたのだ。
僕の中ではパリの駅はあくまで6つの中心からはちょっと離れた駅達であって、パリは中心部に駅が入ってくるのをかたくなに拒んでいると思っていたが、実際はそうでなかったようだ。
この鉄道路線の名残は実は今でも見ることができる。
アンヴァリッド駅やオルセー駅、オーステリッツ駅は地下で結ばれて現在のRER C線になっているし、ソー線は今のRER B線の南部につながっているのだ。100年前の鉄道路線はこうやって今も生き続けている。あまり書いていると長くなるのではしょるが、RERの路線たちは1800年代後半~1900年頃に出来た鉄道路線を利用しつつ新規路線を追加して1960年代に復活した。

しかし、1930年代後半になって車輛が長くなったことを受けてホームが足りなくなったこともあり駅舎としての短い役目を終えた。

それが、86年に美術館として改装されて今の姿があるのだ。


ルーブルを見てから、オルセーに行く時に、セーヌ左岸沿いを歩いているとオルセー美術館の側面を見ることができる。時間がある人はぜひ見てほしい。

そこには、PO(paris-orleans)と駅舎に掘られたマークと、かつてオルレアン鉄道が結んでいた駅、ボルドーやオルレアンといった名前が刻まれているのだ。確かにここは駅舎だったことを感じさせる瞬間。自分はこれを見た時ちょっと感動した。

それを感じながら、オルセー美術館の正面に入ってみるとより一層オルセー美術館が素晴らしいモノになるのでないかと思う。チケットを切った後少し階段を下る前に奥を見渡せば、そこに当時はオルレアン鉄道の車両が止まっていたこと、線路が地下を通ってきたから恐らくあの下り階段があるのかもしれないといった思いが湧いてくる。
そして、振り返ってあの大時計を見れば、より一層駅としてのオルセーを感じられるはずだと思う。
駅として流れていた時間を見ながら、ちょうど鉄道が開通した時代からオルセー駅が誕生するくらいまでの当時の作品たちを見るなんて、なんとも粋なことをしてくれるもんだなと思う。


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