2013年5月28日火曜日

びじゅつかんりてらしー

昨年は美の国フランス、或いはその周りの欧州諸国にて学生特権(学生は美術館無料ってところが結構多い)を存分に享受していた反動で、日本で美術展に金なんぞ払ってられるか、割に合わん!って気持ちだった。
ので、記憶が確かなら特撮博物館しかいかなかったのだけど、今年度入ってからはさらにその反動なのか随分展覧会を見ている。
ミュシャ、ベーコン、ルーベンス、猪熊源一郎、平山郁夫、クラーク美術館、プーシキンとまぁ見てきたわけで、今回見たのは豊作だったのが多い。

ただ、特に猪熊・平山の両美術館を見て感じたのだが、日本の美術館ってなかなかある特定の画家についてじっくり見れる場所がない。

恥ずかしながら平山郁夫も猪熊源一郎も殆ど知識もなく、とはいえ名前は知ってるしせっかくだからとそれぞれ訪れたわけなのだが、作品が非常に少なくて、結局代表的な作風があまりわからないまま終わってしまった。特に平山に関しては、若いころから晩年までさーっと流してはいるものの、本当に小学生の時の絵とかもあるせいで、肝心の画風が固まるころの絵はほんの2,3点。面白いなぁと思った時には終わってしまった。結局お土産の絵をみてこういう絵を描くのかと納得するというありさま。

あぁ今回は残念だったなぁというところで思い返して他を振り返っても、岸田劉生ならここ!とか梅原なら!とかそういう美術館ってなかなかなくね?と気づいた。東博行っても、東近美行っても、1,2枚は見れてもそれで終わっちゃう。結局どこの美術館に行っても1~2枚ずつしか見れないから結局イメージが固まらないまま、或いはその人が好きになるってわかる前に離れてしまって結局定着しないかのような。

例えばヨーロッパだと国内の有名画家はだいたいたっぷり持ってるもんで、オルセーでの印象派とか、ルーブルのドラクロワ、ベルギー王立でのルーベンス、ブリューゲル、マグリッド、オランダいけばゴッホやレンブラント、英国のターナーetcとまぁ、そこの美術館にいけばその人の作品が沢山見れるので、この人の絵は好きだ、嫌いだ、こんな絵描くのか―、なんてのがそれなりにわかるし、自分の中でベースが出来上がる。

まだ画とかよくわかんねーなぁという17の終わりに、フランスで沢山の絵を見て、オルセーでモネを沢山見て、この人の絵いいなぁと思ってお気に入りになったサンラザール駅を通り、ルーアンにてルーアン大聖堂の実物みてという体験との組み合わせで自分は画が好きになったわけだが、その時もこの作家はこんな絵書くんだってのが色々蓄積されたからこそ自分が好きな画がどんなものか、誰が好きなのかわかった気がする。

でも、日本ではそれがなかなかなくて、いい美術館であっても流れは理解できるけど自分の中の基準はなかなか作れない。ポーラも、国立西洋美術館の常設も素敵だとは思うけど、一人の画家の作品は限られるし美術館の大きさがそもそも違うってせいで意図的に作品絞っているし。
それにしてもあんまりではなかろーか。

自分の乏しい知識でいえば、唯一北斎に関しては、まとまって見れるところが沢山ある(津和野も小布施も楽しかった)のだが、それは彼が超多作だったからにすぎず、後は広重にしても大観にしてもなかなかまとまってみれたもんじゃあない。

先日のベーコン展で初めてベーコンがどんな画を描くか(作品はむずかった)、まがりなりにも理解が出来た。

でも、未だに平山郁夫も横山大観もまとめて作品みたことないからぼやーーんとしかイメージが出来ない。本当に好きか嫌いかもわからない。人の名前がついた美術館も本当に小さいのが多くてなかなかわからない。(大学の裏にそういえば横山大観記念館あったけどあれも明らかに作品数すくなさそうだし)


どうして日本ではまとまって見れないのだろうか?

日本を代表する(?)であろう東京国立博物館の常設展のコンセプトが日本美術の歴史を最古から今まで見せる、というものであるが故?

それはそれで1つの大事なあり方だとは思う。けれど、今の日本の展示方法だと、色んなもの見て、どれが好きかもわからず、とりあえず展覧会に行く、となってしまったり、せっかく展覧会みて気に入った人が出来てもその人の作品をまとめて次に見るのはもう何十年後になることか。。。みたいになりかねないのではなかろうか。国外のレアな人ならともかく、国内の画家にたいしてですらそれはあまりに悲しい。浮世絵は流出してしまったかもしれないが、近代画家もみんな作品出て行っちゃったの?

せっかくなら、基準を作ってあげられるだけの作品を見せる。そのうえでこその特別展で美術館展や、普段はお目にかかれない作家の展覧会をみれると勉強になるんじゃなかろうか。



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