2012年5月17日木曜日

そこはパリだった

突如前のボスと先輩に、今パリにいるから!という召集がかかり、神楽坂のオサレなお店に及ばれしてきた。

神楽坂のお店といえば基本的に自分では入れないお店ばかりなので、いつも遠巻きに路地を散歩だけして、いつか!と思っていたのだが、大学7年目にしてついに足を踏み入れることに。

お店のフランス人はもうみんな日本語がぺらっぺらだったんだけども、先輩に言われて注文をフランス語で取った後から、フランス人の対応がフランス風に。

いろんな事は日本語でいうんだけど、お勧めのワインは?っていったら

これ!と店で一番高い5ケタのワインを指差すわ、なにも開けてないボトルをいきなりだして、はいよっとかいうわ、お会計でこれはチップ代金ね!というわ、まぁなんともフランスらしい、あのどうでもいいウソを言ってくる感じに対応が変貌した。

会話は途中から日本語だったけど、明らかに接客はフランスのそれだった。

この人間臭い(うさんくさくもある)感じが、やはり惹かれるところなのだ。

大層おいしいワインとお肉とチーズを食し、そのうち自分も後輩を連れてこれるようになれば、とか思いながら神楽坂を後にする。

しかし、2年ぶりくらいに神楽坂にきたが、なんとまぁ魅力的な街なことよ。

地上に出た瞬間のあの明りと街路で既に再度惹き込まれている自分がいた。

また、遊びに来よう。 回遊研究しなくては。

2012年5月15日火曜日

地球が何回回った時

はい、それいつ言ったのー?
証拠はー?何時何分何曜日?地球が何回回った時?

という意味がわからない無茶な難癖をつけて、相手の言ったことを否定するという理不尽極まりない遊び? が子供のころ流行ったのをふと思い出した。

ので、友達に聞いたら隣の隣の県の友達も知っていた。

ありゃ、なんだったんだろうかとふと思う。

そういや、
お前、ほんとにそれ言えんのかー? 命かけられんの?

とか

人の言った事に被せて ハイ、ブー、ハイ、ブーというもう鬱陶しさの極みみたいなのもあった気がする。

そもそもなんでこれ系のどう考えても理不尽としか思えないセリフが流行ったのかもよくわからないのだが、

今考えると子供ってのは、他人に対して突然自分のルールを貸すのがなんて上手いのだろうとか感心してしまった。
外で遊んでる時だって、二人で話しながら突然ルールが次々と出来上がって相手を巻き込んでいくとかよくあった。

となると、子供のころはあんなにルール作りのプロであり、そのルールを簡単に覆す外交術を持っていたのに、どうしてオトナの世界になると海の向こうのやからどもにルールを作られ、それを簡単には覆せず、土台に乗ってから適応策を探りだすのが上手い人達になってしまうのか。

本来の日本の子供たち(世界中もそうなのかもしれんけど)が成長すると、 ルール作りが上手い西側の海の向こうのやからと、ルールを転覆させる暴走車の東の覇者みたいなのが減っちゃうのかなとか思っちゃうわけですよ。

今、これを書いた瞬間が1時21分であっても、それが何回地球が回った時かは、今までもこれからも答えられないままなのです。

地元といふもの

あぁ、いつの間にか2カ月も経っていたのか。
ブログ読んでいますという声で、ほっぱらかしにしていた事実にしていた蓋がぱかっと開いたので何を書こうか少し迷ったのち、ふっと出てきたものでそのまま書き進めることに決めた。

別に自分は流浪人でもないし、帰国子女でもなく、長く川崎に住み続けているのだけど、あまり地元という感覚がない。

先日何をとちくるったか、ふとした折に家から二子玉川まで歩いてみようと思い立って散歩に出た。
さらに何を思ったかせっかくなので今まで歩いたみちではなく回り道をしながら行こうと、最短距離である多摩川を下るだけ、というルートは外してあえて街中を通りながら二子玉川を目指す。

10分も歩けばそこはもう自分が知る町ではなかった。こんなところにこんな小さな商店街があるのか、とかこんなところに工業高校があったのか、なんて小さな発見が次々出てくる。途中疲れて脱線をやめて、川沿いをのんびり下りながら二子玉川までいったのだが、帰り道も同じように途中まであえて脱線をすれば、中小企業や製造業、生コン工場がひしめきあう地区に出会う。生コン工場は大きいのでいくつか知っていたけれど、ここまで小さな会社が沢山ある地区があるなんて、なんてやっぱり知る由もなかった。もはや隣の隣町なので、しらなくて当然と言ったらそうなのかもしれないけれど。

が、どのみち自分は地元を知らない。

小学校を過ごした町と今住んでいる町は違うし、中高を私立で過ごし、大学も東京の方にいってしまったので、地元の飲み屋で飲んだことが実はほとんどない。

駅のすぐ近くに結構流行っている感じの和食系居酒屋があるのだが、そこだってもう7年間毎日目の前を通り過ぎているのに一度だって入ったことがない。もちろん、酒が飲める年齢になる前に引っ越してしまったこと、両親が飲めないので居酒屋に行くことがないっていうのはもちろんあるんだけども。

地元の人、なら地元でおいしい店も、地元のおいしい居酒屋もそりゃしってるだろーよ、とか思いながら10年近くすんでいる今の地より、自分が知ってるのは江古田だったり、本郷だったり、下北だったり渋谷だったりするわけだ。それこそ実家周辺よりパリのほうが圧倒的に勧められる場所が多い。
結局自分が学生として活動している場所の方が極めて印象深い。

そーなると俺が住んでいる場所はここだけど、自分が知ってる場所は極めて少ない。

となると、地元は川崎で、なんていうけども、「おいお前、地元とはそれなんぞや」、みたいな気持ちにならないでもない。

この地の歴史も知らなければ、誰が住んでいるかもよくわからない。

コミュニティがほとんど(自分には)ないこの場所は 地元 となんだろうか。


演習課題でいつか描いた、自分の家の周りを表現する という課題で、僕は自分の風景だと思える場所というテーマで、自らの風景だと実感できる場所と知らない場所でグラデーションをつけて平面図を描いた。あれから2年して、自分の地図に今はたしてどれだけ上書きして濃い色をつけられるのか、と思ってふと振り返って壁を見たが、なかなかうまくは行かないらしい。

5年後、また地図を描いたら今度はどうなっているのだろうか。外から見て、もう少し知ることができるようになるんだろうか。

その時、この場所は自分の地元になるのだろーか。

もやもや。


2012年3月11日日曜日

ヴェネチアビエンナーレと現代美術の苦悩

先日帰国してさっき机の資料を整理しようとして取りだした文化資源学の中でヴェネチアビエンナーレの企画責任者の笠原美智子さん(当時東京都写真美術館事業企画課長)がでてきて、おもしろかったので一部ここに記載。

ヴェネチアビエンナーレヴェネチアビエンナーレは、自分は行ったことないんだけど現代アートの祭典。

で、公園内に各国が展示館を半永久的に持ち、2年に一度行われる世界最大規模・歴史的(1895年から)の祭典なわけだが、日本館もそこに存在している。
しかし、この日本館、1954年に現在のヴェネチアビエンナーレ日本館の建設に際して外務省に55年度予算として建設費千数百万円を要求したが、最終的にこの要求は除去され、9月に三百万円の資金のみが提供。結局そんなのでは建設できるわけもなく、当時ブリヂストン会長が建築費を負担することでやっと日本館が建てられたそうな。現代アートに対する厳しさが見て取れる。

展覧会にしても、2006年度においての予算は 国際交流基金の3000万と協賛金で集めた710万。
これで 下見の旅費、輸送費、設営展示費、広報、図録作成、パンフレット、パーティ資金、光熱費、監視など全てを行わないといけないらしい。このため、 印刷物は船便で事前に送り、パーティのお酒は提供をしてもらうことでなんとかまかなったとか。
絵画作品に保険をかけるとなるとまたそれもとんでもなくお金がかかるはず。3000万というのは相当厳しいのだろう。
実際にコラムでは欧米諸国は最低3-10倍は予算を組んでいるだろうとのこと。

自分がいたフランスは毎年文化予算に国家予算の1%を捻出し続けているし、ポンピドゥーという立派な近代美術館も用意されている。おまけに都市開発の際もアートの目線は必ず用意されているらしく、かのラデファンスができる時(60年代)でも広場に置く現代アート作品としてフランスで活躍するフランス人および外国人の中で幾人かにアートを依頼した。作品群はデファンスに行けば一目瞭然。

現代でもパリではLa nuit blancheという10月1日の夜は現代アートが街中の到る所で展示される。当日はものすごい人出で、アーティストにとっては自分の作品をアピールする凄いチャンスになるだろう。この日はメトロもずっと動いているし、アーティストさんと話したところ、自分で設営と撤収を行わないといけない代わりにお金は特にかからないっぽかった。出資提供はパリ市。

現代アートにもお金を費やし、将来歴史的価値をもつであろうアート作品の保持及び、アーティストの養成できる環境を作る欧米諸国。フランスは、特に印象派の絵の海外流出を悔やんでいるらしく、その二の舞は踏まない!との決意をしているとか。

同じく浮世絵が流出してしまっている日本は果たしてどうなのかっていうと、平成館の特別展とかみてても 以下に苦しいながら補助金と入場料収入でなんとかやるかみたいな苦悩が表れているし、現代アートに特別フォローがいっているわけではないんだろう。実際、王族にフォローしてもらって中東で大々的に展示をしている村上隆とかを見ていると、このコラムだけでなく差は歴然なんだろうなぁと思う。

どこかで果たして転換点はくるのだろうか。

    2012年2月23日木曜日

    おるせー。

    もうすぐパリを去るので、やっぱり好きなオルセーには行かねば行かぬと改装後2度目のオルセーへ行ってきた。
    3カ月ぶりに行っただけなのに一回入口右手の作品は大分内容が変わっていて、本当にこれは何度も来ているあのオルセーなのだろうか?と思えるくらい新鮮だった。”夜”のテーマの企画部屋とかこの人がこんな絵を描くのか!とかそんなのが沢山あって面白い。

    そして、5階にある印象派コーナーはやっぱり驚異的と言うほかなかった。あれが当たり前のようにふらっと美術館入って無料で見られるってのはもうそれだけでパリにいるものすごい恩恵だと思う。
    パリにいる学生だから得られたこの権利ももう無くなってしまうかと思うととても悲しい。

    この一年半のうち、オルセーでの授業やふらふら遊びに行くのを通して、これまで余りよくわかっていなかったドガの凄さを思い知ったり、印象派やマネについての新たな見方も色々味わえた。(それだけに今日ドガのパステル絵のコーナーが見れなかったのはとても残念)。


    それだけでなく、オルセーという美術館の歴史とそのあり方というのがもうそれだけでカッコ良くて、PO(パリ・オルレアン鉄道)の彫刻を見ると、当時のパリの鉄道がここにまで来ていたのかとついつい感慨に浸るようになった。正面だけでなく、側面を見るようになったのもこちらに来てから初めてのことだった。

    初めて17歳でパリに来た自分はまだ美術作品にも全く興味が無くて、それこそとりあえず美術館は無料だし観光で覗くかという程度だったのだけれど、モネのルーアン大聖堂を見て、サンラザール駅を見てから、サンラザール駅を通ってルーアンに行って現物のルーアン大聖堂を見たあの時の感動から絵画作品って凄いんだなぁとよくわからないなりに感じるようになってきたのでオルセー美術館には色々と思い出が詰まっている。

    そのうちまたあの大時計をのんびり見ながら19世紀の世界に溺れてみたい、と思わされた。

    そんな思い出深いオルセーで、何故かボナールの不敵な猫の絵ハガキ買ってしまった。名作ぞろいのオルセーの数あるポストカードの中でなんでこれを選んだのかはわからないが、好きなのよね、この猫。http://bit.ly/x9AAyK

    2012年1月29日日曜日

    パリの公園、日本の公園

    パリの公園といって思い浮かぶもの・・

    リュクサンブール、トゥイルリー(ルーブルの前の奴)、ラヴィレット、モンスリ、モンソー、ビュットショーモン etc

    フランス人(いや、ラテン人?)は太陽の下にいるのが大好きなので、春や夏になれば大勢の人が公園へピクニックにでかけたり、散歩したりする。冬場でもオープンカフェが人気なのは、気候と気質によるものではないかと思う。日本にまんま適用するのはつらい。

    とはいえ、こうしたフランスの公園は24時間空いているものがすごい少ない。

    多くの公園は綺麗だけど巨大な鉄柵がついていて、夜には締め出されてしまう。

    リュクサンブール公園なんて、けたたましい笛の音で終わりを告げられるそうだ(追い出されたことはないのでよく知らない)。

    フランスの公園は大きく分けて、オースマン時代に新しく整備されるようになったものと王宮の庭園を一般に開放したもの(リュクサンブールやトゥイルリーなど)の2つがある。
    モンスリ、モンソー、ビュットショーモンはオースマン時代に端を発する。ブーローニュ&ヴァンセンヌの森も荒れていた状態だったのが、この時代に再整備された。シャンゼリーゼも同様である。


    イギリスの公園に感銘を受けていたオースマンは

    ナポレオン三世に向けて

    De ne manquer aucune occasion de ménager, dans tous les arrondissements de Paris, l'emplacement du plus grand nombre possible de squares, afin de pouvoir offrir avec largesse chez nous, comme on le faisait à Londres, des lieux de délasssement et de récréation à toutes les familles, à tous les enfants, riches ou pauvres

    と伝えている。
    ざっくり訳すなら、ロンドンの公園がそうであるように、憩いの場を家族、子供、貧困問わず全ての人に提供するために、この期を活かして出来る限りの緑をパリのすべての区域に作るべき、といった事を伝えている。

    そのようなアイデアがあったにも関わらず、巨大な鉄柵があり、門は夜になると固く閉ざされ基本的には入ることは許されない。それ以前の公園が、非常に限られた貴族にしか解放されていなかったので、それを一般市民にも開放するという思いがあったのに、どうして柵が無いといけなかったのか。治安のことは勿論あるのだろうが、ちょっと不思議なものである。明りの関係とかもあったのだろうか。
    オースマンの時から150年は経っているのにそれでも柵は取り払われない。
    パリジャンはこれについてどう思ってるんだろうか?

    そう感じてしまうのは、日本の公園に慣れているからなのかもしれない。
    有料の公園や代々木公園などを覗けば24時間空いている場所も多い。上野公園など良い例であるし、小さな公園なんて殆ど柵など存在していない。

    日本で最初の近代的公園である日比谷公園は門はあるものの、大半の柵は簡単に乗り越えられる非常に形式上の柵である。(初期から柵があの形状だったかについてはちょいちょい論文を読んでみたが記載されていなかったし、図面からではよくわからなかった)
    最初の公園が柵がないというところから日本の公園の多くは柵がないのだろうか。その最初の公園に柵がないのはなぜか?

    自分の記憶だと、日比谷公園は本多静六がNYのセントラルパークを模倣したと調べたはずなのだが、どうも今検索しているとドイツのコーニッツの公園を模倣したという言及が多い。ドイツの公園はよくわかっていないので、一体なににより公園がこのようになったのかはよくわからないけど、こんな所に国の差が出てくるのは非常に面白い。

    治安、都市の発展の歴史、災害対策などが恐らく原因なんだろうと推測するけど、まだ詳しいことは自分にはよくわからない。
    城壁が非常に重要な位置を占めていたフランスでは囲いを持つのが当たり前だった一方で、日本の城下町のようにきちっと街を閉ざさないという意識が公園の設計にもしみだしてきたのだろうか。

    さらに言えば、公共空間としては素敵な一方で、夜閉ざされてしまうパリの公園は、公園としては普通でも24時間空いている日本のそれより優れているのだろうか?
    公園は公共のものであり、いつでもだれでも皆が過ごしやすいように使えるべき、だなんてなんとなく思っていたけど、夜は固くその公共性を閉ざしてしまうパリの美しい公園を見ているとパブリックとは何ぞや、と考えさせられるのだ。

    2012年1月18日水曜日

    エッフェル塔

    たまたま図書館でエッフェル塔の本を見つけたのでパラパラと読んでいた。

    エッフェル塔はいつも下から眺めるばかりで、先月ついにきちっと登ったのだけど、その際にあの巨大な塔が僅か2年半(29か月)ばかりで完成したことに衝撃を受け、構造デザインのカッコよさに改めて感服したばかり。

    かのモーパッサンがエッフェル塔のレストランで食事をするのが好きだ。ここならエッフェル塔を見ないですむから、と言ったのは有名だが、エッフェル塔はなかなかどーしてカッコイイと思う。当時の批判の一部はあまりに技術偏重だったから、というのもあるらしい。建築家のデザインや装飾をくわえて今の形になったらしいが、元々形状は水平方向からの風の応力にどうこたえるか、というところから基本的な構造が決定された模様。

    詳細図面は3600枚に及ぶのだとか。

    そんなエッフェルがアーティスト達連合から出された非難に対して答えた文がとてもカッコ良かったので記録のためにここに記載。

    "Parce que nous sommes les ingénieurs, croit-on donc que la beauté ne nous préoccupe pas dans nos constructions et qu'en même temps que nous faisons solide et durable, nous ne nous efforçons pas de faire élégant? Est-ce que les variables fonctions de la force ne sont pas toujours conformes aux conditions secrètes de l'harmonie?"
    我々が技師(エンジニア)であり、我々の建築が美しさと無縁であると思い、我々が丈夫で長持ちするものを建てると同時にエレガントなものを建てようと願っていることを信じないというのか?力学の持つ必然性(変数関数)は常にハーモニーを奏でる秘薬ではなかったか?

    とのこと。構造デザインここに極めりって感じ。

    とはいえ、エッフェルさんが元々化学専攻であり、かつエッフェル塔のデザインは彼の会社の部下2人が行ったことはここではあまり語らないことにしておく。

    アメリカの自由の女神の鉄骨構造や、ガラピ橋を作り、エッフェル塔が20年契約の後に壊されないよう空気力学の研究をしたり、ラジオ(無線)の研究(ラジオ電波基地になってエッフェル塔は解体を免れた)をした彼はやはりすごいと思うから。